「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年」(田家秀樹)

松本隆の詞、いいなあ!♪ やっぱり拓郎とコラボした『ローリング30』だよね。「外は白い雪の夜」は、名曲中の名曲だよねー。『言葉』も最初に聴いたときの衝撃はいまでも覚えているっ!!!(=^・^=)

 

さてこの本。「時代を超えて歌い継がれる名曲の数々は、なぜ一人の作詞家から生まれたのか。伝説的日本語ロックバンド”はっぴいえんど”のメンバーとして活動した後、日本を代表する作詞家となった松本隆50年の軌跡を追う評伝。太田裕美「木綿のハンカチーフ」、大瀧詠一「君は天然色」、松田聖子「赤いスイートピー」、寺尾聰「ルビーの指環」、KinKi Kids「硝子の少年」――。抒情性と物語性に富んだ歌詞で数々のメガヒット曲を生み出した松本隆。シングル曲よりアルバムのコンセプトを重視した作詞など新しい手法を用いたほか、シューベルトの楽曲や「古事記」をもとに作詞をおこなったこともあった。大瀧詠一、筒美京平、松田聖子らとの知られざるエピソードを含め、その挑戦の日々を松本隆本人へのインタビューと証言者たちの言葉から描き、不世出の作詞家の本質に迫る」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・そもそものきっかけは、作詞家・松本隆が手掛けたアルバムを聴き直したいということだった。SNS時代になってより一層そうなっている気もするのだが、今も昔もテレビを筆頭としてほとんどのメディアが伝えるのはシングルで、しかもヒットした曲が中心と言っていいのだと思う。僕らの聴き方はそうではなかった。
そのアーティストがどんな人物で何を歌っているのか、アルバムを聴くことで見極めようとした。アルバムを持っているかどうかが、そのアーティストに対しての距離感の物差しだった。筆者が「作詞・松本隆」というクレジットに惹かれたのはご多分にもれず70年8月に出たはっぴいえんどの1枚目のアルバム「はっぴいえんど」だった。僕は創刊したばかりのタウン誌 「新宿プレイマップ」の編集者だった。新宿はフーテンとアングラ、今でいうサブカルの街だった。長髪にジーンズ、まともな社会人にはなれないままに世の中に出てしまった音楽好きの人間にとって、はっぴいえんどは「俺たちの音楽」だった。そう思わせてくれたのはアルバムだったからだ。それまでの日本の音楽では聴いたことのなかった風通しのいいあの音も、言葉の向こうにさまざまな情景が浮かんでくるようなあの歌詞も、アルバムでなかったら到底伝わらなかっただろう。
 
70年代の音楽業界に“あっち側・こっち側”という言葉があったことを知る人はもういないと思う。言い換えれば、“あっち側”は“歌謡界・芸能界”“こっち側”は“フォークやロック、シンガーソングライターの世界”という違い。あっち側はシングルヒットが全てでこっち側はアルバム重視と言っていいかもしれない。松本隆はその分断に橋を架けて、単身、あっち側に渡って行った。そして史上最強の作詞家になった。
 
あれから30年。彼は2021年7月に出た松本隆作詞活動50周年トリビュートアルバム「風街に連れてって!」のブックレットのための筆者によるインタビューで「どこまで自覚的だったかはわかんないけど、どうせものをつくるんならすぐに消えちゃうものより、できるだけ残したいなと思ってはいた。はっぴいえんどはそうやってつくっていたし。歌謡曲をやりだしてからは、はっぴいえんどよりは残しにくいなとは思ったけどね」と言った。
 
彼が書いた曲にはシングル、アルバムの区別がないどんなアルバムの1曲だろうとシングルのB面だろうと質が変わらない。それは聴いていけばいくほど実感することであり、驚くべきことだった。
 
・歌は聴いている人のものだ。
 
知っている曲もあるだろうし、知らなかったアルバムも多いかもしれない。
松本隆がどういう作詞家なのか。
どんなことを歌ってきたのか。
何がこれまでの作詞家と違ったのか。
そして、彼の30年はどういうものだったのか。
そんなことを知るささやかな手掛かりになればと思う。
 
・「風街」というのは1971年に発売されたはっぴいえんどの2枚目のアルバム「風街ろまん」から来ていることはいうまでもない。
日本語のロックというスタイルを確立した音楽史に残る金字塔アルバムを象徴するだけでなく、作詞家・松本隆の代名詞のような言葉として定着している。
 
彼は35年に出版された初の長編小説『微熱少年」(立東舎文庫)の中で16歳の『ぼく”にこう言わせている。 
 
生徒手帳の住所欄に、ぼくは一言、風街と書きこんで、内ポケットに入れていた。新学期が始まった日、地図帳を広げて、青山と渋谷と麻布を赤鉛筆で結び、囲まれた三角形を風街と名付けた。それはぼくの頭の中だけに存在する架空の街だった
 
僕らが初めて松本隆の詞に接したのはエイプリル・フールのデビューアルバム「APRYL
FOOL」だった。 こさかちゅうやなぎだひろよしきくち えいじメンバーは小坂忠(V)、細野晴臣(B)、柳田博義(Key)、菊池英二(G)、松本零(D)いう5人組。松本零というのが当時の彼の名前だ公園らしきベンチに不機嫌そうな長髪の5 人が座っている。モノクロのジャケット写真を撮影したのは当時電通にいたカメラマンの荒木経惟だった。
 
僕も含めて「松本隆」の名前を強烈に印象づけられたのは、はっぴいえんどからだろう。彼らが岡林信康のパックバンドとして起用されるのは翌70年3月のことだ。
 
メロディやリズムはすでにあったわけですが、ぼくらがやりたかったことはフォークじゃなくて、ロックやポップスで歌う言葉を探していたんです。でもその時に参考になるものはなくって細野晴臣さんと二人で知恵をしぼりましたね。彼が「お前はいつも本を読んでるから詞を書け」と言って(笑)、偶然に書き始めた感が強いんです。
 
参考になるものがない。自分たちで作るしかない。 それが「デラシネ」の第一歩だった。
 
・何をいまさらと言われるかもしれないが、作詞家というのは他人に「詞」だけを提供する職業である。それは「歌う人、が存在してこそ初めて成り立つ。同時に依頼する人』があってこそということになる。

 

いいなあ。あらためて聴いてみたいなあ。超オススメです。(=^・^=)