「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「拉致と決断」(蓮池薫)

いや〜スゴイ……北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんがどんな生活を送ってきたのか。これを擬似体験できるなんて、本ってスゴイなあ……。(T_T)

 

北朝鮮での24年間を綴った、衝撃の手記。拉致当日を克明に記した原稿を新たに収録。恋人と語らう柏崎の浜辺で、声をかけてきた見知らぬ男。「煙草の火を貸してくれませんか」。この言葉が、〈拉致〉のはじまりだった―。言動・思想の自由を奪われた生活、脱出への希望と挫折、子どもについた大きな嘘……。
夢と絆を断たれながらも必死で生き抜いた、北朝鮮での24年間とは。帰国から10年を経て初めて綴られた、衝撃の手記。拉致の当日を記した原稿を新たに収録」そのエッセンスを紹介しよう。

 

帰国して十年。思えばこの十年は、あの日の決断から始まった私たちを拉致した、しかし私たちの子どもたちが残されている北朝鮮に戻るのか。それとも生まれ育ち、両親兄弟のいる日本にとどまって子どもを待つのか。苦悩の末に私が選んだのは後者だった。苦しい決断、いや一生に一度の賭けとも言えた。

 
「日本に残って、子どもを待とう」
 
私がこう打ち明けたとき、妻は半狂乱となった。
 
「何を言っているの?! 子どもがいるじゃない!」
 
かつて見たことのないほどの激しい表情で反発してきた。こんなことは初めてだった。私は一瞬たじろいだ。母親としての子どもへの愛情の強さ、無条件さに圧倒されそうになったのだ。
 
「俺の話を聞いてくれ」
 
かろうじて持ちこたえた私は、必死の説得を始めた。何をどう話したのかよく覚えていない。おそらく、子どもたちの将来を考えても、日本で暮らすしかない」「日本政府は子どもたちを必ず取り戻すと言ってくれている。それを信じるんだ」そんな話をしたに違いない。妻も日本に残りたい思いは強かったはずだが、子どもたちが残されているというただ一つの理由で、なかなか首を縦に振らなかった。私の説得は延々と続いた。
 
何が決め手になったのか、最後には私の言うこと、というより、私自身を信じてくれた。本当にありがたかった。なぜならこの決断が、いつまで続くかわからない、子どもたちとの別離という耐え難い苦痛を伴うからだった。
 
子どもたちが私たちのもとに来るまでの一年七ヶ月は、私たちにとって本当に長く、 苦しい時期だった。ただひたすら、子どもの帰国を信じることと目の前の仕事に打ち
込むことで、かろうじて乗り切った。
 
そして今、子どもたちが日本に来て八年半経った。彼らは自らの判断で選んだ道を自分の足で歩んでいる。紆余曲折はあるにせよ、時たま見せる輝いた目と、希望に満ちた笑顔が、あの日の決断が間違っていなかったことを物語ってくれている、と私は信じたい。
 
家族の命運をかけ、夫婦間で激しく言い争ったことをはじめ、北朝鮮での二十四年に体験した出来事とその時々の思いを、このように書き記そうと決意するまでには、かなりの歳月がかかった。長すぎると思う人もいるかもしれない。だが、あまりに重苦しかった半生生を、自分のなかで整理するのはそう簡単ではなかった。
 
・何よりも日本に残るという決断が正しかったという確信が必要だった。それには子どもたちが意欲を持って自立の道を歩み出すことが最低条件だった。ほかの拉致被害者たちの帰国を実現するうえで、いったい私がどうすることが適切なのか、つまり私がこのようなものを書くことが問題解決に有益なのかどうかを判断する必要もあった。
 
さらには、私自身が北朝鮮での生活を、むき出しの感情や感傷からだけでなく、一定の距離を置いて冷静に振り返ることのできる、心の余裕も不可欠だった
 
本書では拉致被害者としての自分の生活や思いだけでなく、北朝鮮の人たち、すなわち招待所生活で接した人たちや平壌市内で目撃した市民たち、旅先で目の当たりにした地方の人たちなどについても叙述した。それには、北朝鮮社会の描写なくしては、私たちの置かれた立場をリアルに描けないという理由とともに、決して楽に暮らしているとは言えないかの地の民衆について、日本の多くの人たちに知ってほしいという気持ちもあった。彼らは私たちの敵でもなく、憎悪の対象でもない。問題は拉致を指令し、それを実行した人たちにある。それをしっかりと区別することは、今後の拉致問題解決や日朝関係にも必要なことと考える。 
 
・招待所生活の自由度を語るには、奪われた自由より、与えられていた自由を説明したほうが早いのかもしれない。
 
まず、考える自由はあった。心に思い浮かべることについては、さすがに誰も干渉したり制裁を加えたりはできなかった。ただし、言葉に出さないこと、さらには表情にも出ないことが条件となる。しかし、人間というものは心が外に表れがちだ。たとえば北を逃れて日本に帰りたいと常に思い続けていると、日本から訪問団が来たというニュースに微妙に反応したり、車で平壌市内を走るとき、どの国の大使館がどこにあるかとつい運転手に質問したり、キョロキョロ見回したりすることになる。指導員たちは私たちのそういう行動に格別神経をとがらせていた。そういう意味では、考えることも全く自由とは言えなかった。
 
私物を所有し、処分する自由もあるにはあった。招待所で働く現地の人たちと金や物品を貸し借りしたり、売買したりするという行為は可能だった。ただ、その過程で約束違反があったとしても、私たちに裁判に訴える権利はなかった。
 
これ以外に思い当たる自由といえば、招待所の周辺を散歩する自由ぐらいしか思い当たらない。最初は招待所から目の届く狭い範囲に限られ、管理人の監視も受けたが、 、そう簡単に逃亡しないはずという「信頼」を得るにつれ、数キロ離れた池まで釣りにいくことも見逃されるようになった。
 
そんななか、私が一番悔しかったのは、人生の幸せを追い求める自由を奪われてしまったことだった。 幸せとは何かについては十人十色の答えが返ってくるだろう。お金を稼いで贅沢することを至福と考える人もいれば、必死で出世して高い地位や名誉を手にすることだという人もいる。
現実の前で夢が変わることはあっても、多くの人は死ぬ間際に自らの夢の実現じようじゆまぎわ報を、充足感か、もしくは口惜しさを持って振り返る。成就しようとしまいと、夢なくしては人生、味気ないものにならざるを得ないだろう。この絆と夢を、私はあの夏の夜の、おぞましい拉致という行為によって、一瞬に断ち切られてしまった
 
拉致されて一年9ヶ月後に家内と結婚、翌年には娘が生まれた。これは大きな転換期となった。拉致によって家族との絆をすべて失っていた私に、北朝鮮の地で、新たな絆ができたのだ。絆は、私にとってつらいときにすがれる心の支えとなり、絶望感を大きく和らげてくれた。
 
子どもたちが生まれた以上、彼らが幸せに生きていけるようにしなければならない、 そんな親としての責任感も生まれた。その責任感は、次第に私の人生の『夢』へと変わっていく決して希望に胸を躍らせるような夢ではない。なぜなら『日本に帰れる」という願望を断ち切ってこそ実現可能な『夢』だったからだ。当てのない帰国願から、かの地で子どもを育てていくことはできなかった。親が生きているうちはもちろん、死んでからも子どもたちが、腹を減らさず飯が食え、凍え死なな私は子どもを育てることだけに神経を使い、力を尽くした。
 
・私たち家族の身分は日本人ではなく、『帰国した在日朝鮮人』と偽装した。当初から、秘密保持という目的のために、日本人という身分を口に出さないようにと指示されてはいたが、ここに来て正式に帰国した在日朝鮮人としての経歴を登録したのだ
 

中でも「拉致の瞬間の描写」「招待所での暮らし」「日本に戻れる可能性は皆無」など。

この問題をい解決せねば。超オススメです。m(_ _)m