「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「『イムジン河』物語 “封印された歌の真実”」(喜多吉浩)

 

「封印」とか「放送禁止歌」とか聞くと、なんかワクワクするよね!♪ そんなときは私の「流し」にきて、リクエストしておくれ!♪ さてまたまたイムジン河関連の本。

 

ザ・フォーク・クルセダーズのレコード発売中止騒動から半世紀。当事者が明かした「本当の舞台裏」。歌の復活劇を描く渾身のドキュメント! 母国「北朝鮮」で忘れ去られた歌に命を与えた日本人、魂を揺さぶられた拉致被害者、数十年も「闇」に閉じ込められた歌は放送禁止歌ではなかった……。貴重な写真と楽譜付。 きたやまおさむ(北山修)の想い、「南北統一」の願いを詞に込めた松山猛金正日の前で歌った韓国の歌手・キム・ヨンジャ、映画「パッチギ !」での復活、桑田佳祐らのCD化、この歌に生涯をかけた在日コリアンの音楽プロデューサーの証言」そのエッセンスを紹介しよう。

イムジン河』という歌ほど、政治や時代に翻弄され、数奇な運命をたどった歌もない。1968(昭和43)年二月、朝鮮総連在日朝鮮人総連合会)の抗議に端を発した、ザ・フォーク・クルセイダーズ(フォークル)のレコード発売中止騒動。ほんのボタンの掛け合いから起きたトラブルは「政治的な問題」に発展する。以来、この歌はタブー視され、30年以上もの長い間「闇」の中に閉じ込めてしまう多くの関係者が深い傷を負った。
 
・1957年、北朝鮮でソプラノ独唱曲『リムジン河(リムジンガン)』として、この歌がつくられたとき、まったく評判を呼ばなかった。「皆で一緒に歌えない、楽しめない」と民衆には相手にされず、ステージで披露されたのは初演の一回きり本国で忘れされた歌に再び「命」を与えたのは日本だった。在日コリアン社会に広まり、京都の街での「運命的な出会い」によって、フォークルの仲間に伝わっていく。
 
・限りなく美しいメロディーと,三八度線を超えて流れる河に寄せて南北分断の悲劇を綴った歌詞は、万人の心を打った。「日本で最も有名な北朝鮮の歌」は、やがて、日本から北朝鮮へ“逆輸入”される。二一世紀を迎え、やっと長い“封印”を解かれたこの歌は、堰を切ったように広がっていく。「アジアのイマジン」と呼ばれるようになったのは、いつごろか。平和や差別のない世を願い、あるいは、懐かしい故郷や愛しい人を想いながら、この歌は世界中で歌われている。思えば、長い、長いワインディングロードだった。戦後七〇年あまり。フォークルが初めて披露してから、今年(2016年)でちょうど50年になる。イムジン河という歌が歩んだ不思議な旅路をたどってみたい。
 
朝鮮総連の要求は二点。朝鮮民主主義人民共和国という北朝鮮の正式国名と、作詞・作曲者の名前をレコードに入れること。
 
・『リムジン河』の北朝鮮の評判は今ひとつだった。いや、散々だったといってもいいかもしれない何しろ、北朝鮮のステージでこの歌が披露されたのは、記録を見る限り、この初演のたった一回きりなのである。
 
イムジン河を松山に教えることになる少年は、サキソフォンを吹いていた京都朝鮮学校に通う文光珠(ムン・ヴァンス)だった。
 
・「当時のフォークルにはコミカルな歌が多かったので、『たまにはこんな歌を歌ってみたらどう?』って勧めてみた。この歌を彼らに歌わせてみたい、きっと面白いことになるって思っていたからね」松山はそう振り返る。「ボクの覚え違いだったのか、伝えるときに間違ったのか。当時のボクらには、おそらく、そのメロディーやリズムが心地よかったんだろうね」
 
イムジン河……それは、約60年前、北朝鮮という国で始まった、一滴のしずく。源流は、長い長い、曲がりくねった隘路(あいろ)を歩みながら、とうとうと流れる大河となった。途中で干上がったり、消えて無くならなかったのは、この歌自身が持つ魅力とともに、多くの人々の熱く、強い想いが込められていたからに違いない
 
イムジン河』は「希望」である。過去を振り返るのではない。この歌に、未来を託してこれからも世界中で歌い継がれてゆくだろう。
 

 

↑ イルカが加入していたシュリークスって、これが元になっていたとは!!!これほどのストーリーと秘話とドラマがある歌ってないよねー。

 

ビートルズに会わせてやる…」(東芝音工のディレクター、高嶋弘之)噛み締めて歌おう。超オススメです。(^^)