「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「表の体育 裏の体育 身体を通した本質的人間把握について」(甲野善紀)

 

いや〜!!!スゴイ本だなあ!肥田春充の名前をひさしぶりに耳にしました!♪

このエピソード、スゴイよね!♪  ↓

 

lp6ac4.hatenablog.com

 

「近代化によって歴史に埋もれた民間鍛錬法・健康法―それが裏の体育。古武術家である著者が、失われた日本人の記憶に再び光を照らす。 西洋科学においても「身体」を完全に把握できているわけではないのだ。 本書は、武術を基盤としたその身体操法がスポーツをはじめ各界から注目される著者が、現代日本人の身体観の常識を覆す「裏の体育」の世界を検証する。 表と裏をつなぐ存在である「武術」を語りつつ、西洋的な分析手法を取りながら、現代医学とは相反した主張を続けた肥田式強健術創始者・肥田春充を紹介。日本人の身体を育てる本当の「体育」のあり方を考える」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・現在日本中にある民間の、いわゆる健康法、鍛練法の種類は、それこそ数えきれないほど多い。呼吸法、体操、呼吸運動、食物による健康法など。“裏の体育”が西洋思想によって専門分化された“表の学問”の体系に納まり難い大きな理由のひとつは、裏の体育のなかでは深く研究されたものほど、理科系も文科系もひっくるめた、いわば全科的傾向に必然的になってゆき、日常の生活方法から、ものの考え方、思想、時には宗教的問題にまで関わる広がりを持ってくるということである。
 
・裏の体育が表の体育と激しくぶつかるもののひとつは、裏の体育の精神作用に対する深入りである。「病は気から」の諺どおり、気持の持ち方、精神の高揚と低迷が体の働きに非常に影響を与えることは、現代西洋医学でももちろんかなり認識されており、偽薬によるプラシーボ効果やストレスの体に対する影響などは、一般にもよく知られているところである。ただ、裏の体育である民間健康法と、表の体育、医学との大きな相違は、裏の体育ではこの精神心理作用を最大限に生かして使おうとするのに対し、表のほうでは、こうした精神、心理作用はあまり積極的に研究をしようとはしていないように見受けられるということである。
 
・当時の「霊術」とは具体的にどのようなものがあったのであろうか。井村宏次『維新以後の霊術家の饗宴』のなかで「日本人の父性を限りなく体現している人物」「原日本人の典型」として第一に挙げているのが、気合術師の浜口熊嶽である。なにしろ当時、近代化に向って迷信撲滅にやっきとなっていた政府のさまざまな取締り法令群と戦い、警察への呼び出しまたは拘留回数七百回以上、法廷に立つことも四十回を越え、そのほとんどに無罪を勝ちとったという強者である。 これほどの厳しい国家からの干渉を退けて、この気合術を施術し続けられたというのは、第一に、 熊嶽の術が有効で、戦前の強力な国家権力を持ってしても押し潰すことができなかったことと(熊嶽は裁判官、医師、警察官等の立合いのもとでの公開実験を行い、気合術による黒子とりや抜歯などに成功している)、権力者のなかにも、こうした霊術によって体を治療してもらった者が少なからずいた、という事情にもよったのであろう。熊嶽も晩年、東条英機と「おい」「おまえ」の仲であった。
 

 
・「肥田式強健術」。これはきわめて表の体育への志向が強かった裏の体育の一大典型であり、本のテーマの重要な鍵を握っている。『丹田』の重要性は、ほとんどの民間健康法や霊術等の裏の体育に共通して主張されており、この“丹田”という言葉こそまさに裏の体育を象徴している言葉ということができよう。
 
・日本における体育の歴史を考える場合、それはすなわち武術の歴史となる。武術は、当然、現在のスポーツ中心の体育とはくらべものにならないほど精神的、心理的問題が深くかかわってくる。
 
・生死をかけた立合ともなれば、心身は単に“あがる”といったなまやさしい状態を越えて、筋肉の痙攣硬直、失禁、失神などの状態がきわめて起こりやすくなってくる。武術としての体育では、体の鍛練を通して、身体と同時に精神も鍛えねば意味がないわけである。
 
ここに、武術が“全科的”体育にならざるを得ない必然的理由がある。わずかな気配も敏感に察知しつつ、しかも動じないといった、 いわば鈍さと鋭さを同時に兼ねそなえたような状態が必要なのである。
 
 
・武術の稽古は、よく『精神修養』であるとも言われてきた。現在この精神修養という言葉の語感は、かなり骨董化した虚しい響きがあるように思われる。もちろん、その第一の理由は、かつては日本の精神風土の特色のひとつであった武の思想が、現代はほとんど影をひそめているからであろう。
 
・『人間」という自然界の他の動物では及びもつかない知能を持った動物は、天災(暴風雨や旱魃等)や天敵(猛獣や病源菌)をそのすぐれた知能を駆使することによって、人為的に防ぐ方法を発達させてきた。そのため、“人間”という種の選抜機構は、その種、すなわち人間自身に委ねられてくるのではないかということである。
 
・日本においてきわめて独特な発達を遂げた「茶ノ湯」の成立に関心を持ったことをキッカケとして、 日本の武の在り方、育ち方に目の開かれるところがあり、漸くひとつの峠を越えることができた。茶ノ湯は、戦国期という、人々、特に武士達が明日の命も知れぬという時代に著しい発達を遂げたのであるが、その理由として、「明日をも知れぬ命ゆえ、その命を最高に充実させたい、生きている深い悦びを味わいたい、しかも武士として潔く、見事に命を燃焼させたい」という切実な思いがあったからであろう。人間にとって深い悦び、この上なく芳醇な時とは、自分と深く心の通いあう人を、心を尽してもてなし、共に過す時であろう。

・昔武術その他技芸の世界で内弟子に入ると、はじめは雑用ばかりで、一向(剣術なら剣術の)手ほどきをしてもらえなかった。というのは、このことが本人の自発的情熱を誘引し勘を育て、また実際に稽古を行わぬうちに基本の大切さをおぼろげながらにせよ実感させてゆくすぐれた教育方法であり、義務や強制によるものとはまったく異なった稽古方法であったということである。
 
・肥田春充がきわめてすぐれていた点は、このように本当に体を改造するための運動は義務や強制では絶対に不可能であるということを、十八歳(満十六歳)で運動を開始する時に気づき、つまり基本の大切さをらしいではなく実感し、そのため周到な計画のもと鍛練運動をすすめていったことである。
 
・すべて原理原則というのは、ごくありふれた日常のなかに隠れているものである。
 
・あくまでも表の学問の側に立ち、表の医学、体育の理論(用語)を用いて自己の身体を改造し、 それによって、裏の体育の、どの健康法、どの霊術、新宗教の教祖なども及ばぬほどの健康さと能力を身につけた人物は、唯一人いる。正中心道(または聖中心道) 肥田式強健術の創始者肥田春充である。
 
肥田式強健術と、その創始者肥田春充の名は、現在でこそ一般にはまったくといっていいほど 知られていないが、戦前、在野の健康法、鍛練法の世界では、非常によく知られており、その驚嘆すべき事実の記録は、十分に信頼ができる裏付があるだけにきわめて貴重なものである。
 
・科学の究竟、科学真の極致が宗教である。真宗教の実体は、数学的厳正である。私は私の精神を以て、 直接、法則理法の玄妙に触れて、物理化学的秩序の厳正なることを観た。物質以上精妙な生命精神界にも、厳然たる法則が存在して、其れは正確なる神の数字を以て、処理せられて居ることを、確認したのである。私はそれを、『宇宙倫理の道』と称えたのである。(『聖中心道』創刊号)
 
・子供が使って遊ぶ弓と矢を持たれ、私が針金を立てて好きな所に立ちます。勿論二重の筒をかぶったままですから見える筈はないのです。矢が弓を離れるとピタリと針金に当ります。移動しても同じようにピタリです。何回やっても同じです。私は、千回万回やったら一発位は外れませんか?と質問しまし所、当ててから放しているのですから、必ず当ります、と微笑されました。 
 
 
・武術とは何なのか。スポーツとはどう違うのか。私は、スポーツと武術との違いは、「スポーツがそのスポーツ用に作られた『ルール』によって支配されている」のに対し、「武術は、その人の生き方、 即ちその人の生活方法を律しているその人の思想以外には、“倒すか、倒されるか』という、幼児でも本能的に感じることができるルールがあるだけである」ということだと思う。私は、 武術を「人間にとって切実な問題を最も端的に取り扱うもの」と定義している。
 
うーん……スゴイなあ……ワタシの還暦以降のテーマが「人生の集大成」。まさに、ここに戻ったかあ。ちょっと深堀りしていみよう。超オススメです。(=^・^=)