「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「北里柴三郎 雷と呼ばれた男(上)(下)」(山崎光夫)

 

1853年1月29日(旧暦嘉永五年)12月20日)父惟信・母貞の長男として現・熊本県阿蘇郡小国町に生まれる
1871(明治4年 18歳) 熊本医学校に入学、オランダ人医師マンスフェルトに師事し医学への道を志す
1874年(明治7年21歳)東京医学校に入学
1883年(明治16年30歳)松尾乕(とら)と結婚。東京大学医学部を卒業、内務省衛生局に奉職
1885年(明治18年32歳)ドイツ留学を命じられる
1886年明治19年33歳)ベルリン大学ローベルト・コッホに師事する
1889年(明治22年36歳)破傷風菌の純粋培養に成功する
1890年(明治23年37歳)破傷風菌抗毒素(免疫体)の発見、血清療法の確立
1892年(明治25年39歳)帰国し内務省に復職。芝公園内に私立伝染病研究所を設立
1893年明治26年40歳)わが国最初の結核専門病院土筆ヶ岡養生園を開設
1894年(明治27年41歳)伝染病研究所を芝区愛宕町に移転。ペストの原因調査のため政府より香港に派遣され、ペスト菌を発見
1899年(明治32年46歳)伝染病研究所を国に寄付し内務省の管轄とする
1906年明治39年53歳)日本連合医学会会頭を務める。帝国学士院会員となる。伝染病研究所を白金台町に移転。
1908年(明治41年55歳)恩師ローベルト・コッホ夫妻来日、日本各地を案内する
1910年(明治43年57歳)コッホ死去。翌年、伝染病研究所内にコッホ祠を建立
1913年(大正2年60歳)日本結核予防協会を設立、理事長に就任
1914年(大正3年61歳)伝染病研究所が内務省から文部省に移管されることになり、所長を辞任。同日、私立北里研究所を設立。
1915年(大正4年62歳)恩賜財団済生会芝病院初代院長に就任。北里研究所所屋竣工、開所式を行なう。
1916年(大正5年63歳)生誕地熊本県小国町に「北里文庫」を寄贈
1917年(大正6年64歳)慶應義塾大学医学科を創設、初代科長に就任。貴族院議員となる
1918年(大正7年65歳)北里研究所が社団法人として認可される
1923年(大正12年70歳)日本医師会を創設、初代会長に就任
1924年大正13年71歳)男爵を賜る
1926年(大正15年73歳)妻乕死去
1931年(昭和6年78歳)六月十三日、脳溢血により死去。従二位、勲一等旭日大綬章を贈られる。青山斎場で葬儀、青山墓地に葬られる
 
 
「医者は誇りを持たねばならない。いまの医者は自分の栄華だけを折り、高貴富豪の前で揉み手をして卑下している。予防が医道の基本であるといっていた。人民に摂生と保健の方法を教え、健康の重要性を説かねばならない」
 
・じつに立派な演説だったと三宅は言った。 柴三郎は「医道論」と題して、和紙八枚にわたる演説草稿を認め、事あるごとに自身の医学論、公衆衛生論を訴えていた。これは同盟社の主将として医学生に主張した、柴三郎のいわば、医学哲学だった。
 
熊本の時習館時代、柴三郎はまだ医者を生涯の目標として定めていなかった。軍人を志望 し、医者は軽く見てむしろ避けていた。だが、オランダ人医師、マンスフェルトと出会って 指導を受けるうち、考えが一変した。医学の学問的深淵を知り、将来の進路は医者に向かったのである。
 
・明治初期、人口が都市に流入して密集化が進み、また、海外との交流も盛んとなって伝染病の流行する条件が揃ってしまった。伝染病は国民を疲弊させ、国力を削ぐ。明治政府にとって、伝染病との闘いは焦眉の急だった。
 
・医学部を卒業して医学士の資格を得ると、普通、地方の病院長か医学校長になって土地の 名士になるのが通常のコースだった。そして、そのまま土地に残って臨床医や教育者として活動するか、再び東京に戻って次のステップを踏むかのどちらかだった。
 
明治新政府封建制からの脱皮をはかり、また富国強兵を推し進めるため、有為な人材を 先進国に派遣して各種の制度を学ばせた。そして、近代国家を形成するに相応しい種々の法 律―――郵便規則制定、メートル法太陽暦の採用、徴兵令や貨幣条例公布、学制などを制定 していった。明治二十二年(一八八九年)、大日本帝国憲法を発布し、帝国議会の開催をもって、一応、近代国家としての形を整えた。
 
「医制」も日本の近代化を示すひとつの法律だった。国民の健康保護と近代医師の養成は時 代の急務であった。
 
「柴三郎は命がけで東京にきて、働きながら死ぬほど勉強しとっと。ここで諦めたら、それが無駄になる」
 
・ 「わしは論文ば書いて、いずれドイツに留学ばしたかとたい」
 
"紙?"
 
内だった。 雨は首を少し傾け問いかけた。金融畑専門の役人を父に持つ妻としては、医学の話に不案
 
「ああ、衛生学、それに細菌学の論文たい。時代の先端ば行く学問たい」
 
「わたしには分からない話ですわ」
 
ていく、にら分からん話たい」
 
「どういうことですの」
 
「時代の最先端ば行く学問だけん、これからどぎゃんなって、何が発見されるっか誰にも分 からん。だけん、やってみる価値があっと思うとたい」 ドイツのローベルト・コッホによる炭疽菌結核菌の発見以来、世界の医学は。細菌の狩
 
人』の時代に入っていた。
 
 
ドイツに留学ばしたかと思う。これはわしの夢たい」
 
本当はコッホの元で研究したいと言いたいところだったが、畏れ多く、また気恥ずかしく
 
もあった。相手は世界最高峰の細菌学者である。誰が考えても、夢のまた夢でしかなかった。
 
「ぜひ、叶えてください」
 
雨は夫の成功に期待していた。そして、お茶を淹れかえましょうと立ち上がった。
 
・明治時代、医者として開業資格を得るには、いくつかの方法があった。一定の条件を満た した大学の医学部を卒業すれば文句なく開業の資格が得られた。しかしこれは、人数も限ら
 
れ学資も必要で、資産家かよほどの秀才でもなければ入学できなかった。その医学部でも、 東大には「本科」と「別課」があり、「別課」は、寄宿舎に入らずに通うので医学通学生と も呼ばれ、本科が五年のところを三年で卒業できる速成コースだった。この「別課医学」は
 
明治二十一年六月、自然消滅している。 医者を養成する予備校的な学校に通い、医術開業試験を受けるのも医者の資格を得る有力
 
雨がたずねた。
 
な手段だった。大学とは別の場所で医学の知識と臨床の技を身につけた後に試験を受けるのである。野口英世はこのルートで医者になった一人である。 
 
全国的に蔓延したコレラの二回目の流行は、安政五年(一八五八年)で、三年にわたって猛威をふるい、江戸だけで 約二十万人が死亡したといわれている。 
 
明治維新後、中国からたびたびコレラが侵入した。特に、明治九年から十二年にかけて大
流行し、十六万人余の患者が出て、死者は十万人を超えた。当時の総人口、約三千六百万人
 
を考えると、千人に三人の割でコレラで死亡した計算になる。 こうしたコレラの猛威に対応するため、国は「虎列刺(コレラ病予防規則」を制定し、届出義務や病院収容、消毒などについて細かく規則を定めた。 さらに長与は、部下に命じて明治十年以降のコレラの発生状況を調査させた。その報告に
 
よれば、明治十年以降の六年間に二十四万人近くのコレラ患者が発生し、約十六万人弱が死亡していた。 江戸時代に、「コレラ、ころり」と恐れられた病気は明治に入り、これまで以上に市民生 活を脅かしていた。鎖国時代とちがって、海外との交流が盛んになった分、感染症の侵入の機会が増えていた。
 
「肉眼で見えない細菌が二百倍、三百倍に拡大されて見える。こんなに楽しい体験はほかで
 
 
コレラの原因であるコレラ菌は、明治十六年にローベルト・コッホによって発見されてい たが、コレラがどのような経路で感染するのかははっきりしていなかった。また、コレラ菌
 
以外を原因と考える説も有力視され、混沌としていた。
 
きょうこう 今日なら、治療は脱水症の対応と点滴による全身管理で切り抜けるが、当時は冷えた体を 温め、葛湯や茶で水分と栄養を補給した。個人の体力と僥倖に頼り、病勢のおさまるのを
 
翌日から柴三郎のベルリン大学衛生研究所での研究生活が始まった。ホテルを引き払い、 柴三郎はレフレルに教えられて、研究所にほど近いクロスター街のアパートに部屋を借りた。 研究所にはよその施設には置かれていない最新式の顕微鏡やスライドガラス、蒸気滅菌器、 凍結装置、各種の培地などが用意されていた。内務省の東京試験所とは、量も質の上でも雲
 
泥の差があり、こうした器具器材に馴れねばならなかった。
 
「きみもわたしも、コッホ先生からチャンスを与えられたことになる」
 
レフレルは感謝しなければと言った。
 
その後、コッホは自信を深め、研究に実をあげていった。特有の菌が特有の病気を発病さ せるという発想に世界で初めて思い至った。コレラ菌コレラを、炭疽菌炭疽を発病させ る――、今日では当たり前の概念はコッホによって打ち立てられたのである。それもコー ン
 
教授に会えたからだった。
 
―そうか・・・・・.°
 
コッホにも無名の時代もあれば、不遇な時期もあったのである。
 
 
155
 
第二章 ベルリン の光
 
月一석(機会を得たのである。 北里くん、きみはなぜ医者、それも細菌学を学ぶ気になったのかね」
 
あるときレフレルが柴三郎に聞いてきた。
 
柴三郎はしばらく考えて、
 
「顕微鏡です。先生」
 
と言った。熊本時代、それに衛生局東京試験所で体験した顕微鏡下の世界に魅せられ
 
未知の扉を開けたと実感できた。
 
「ほう、それは面白い」
 
「何がですか」
 
レフレルは眼をひろげて驚いてみせた。
 
「いや、先生とよく似ている」
 
「コッホ先生と」
 
「そうだ。先生は若い頃、総合病院の助手をしていた時代、病理票本を毎日感か」
 
 
――――顕微鏡がコッホを変えたのか。
 
コッホであった。 二十世紀半ば、電子顕微鏡の登場でウイルスの研究が飛躍的に進んだのと同様、十九世紀 の後半、光学顕微鏡の日進月歩の発達で細菌学は格段の進歩を遂げた。その先頭にいたのが
 
柴三郎は自らの細菌学研究の歩みを振り返り、コッホと同じ道をたどっているというだけ
 
で力づけ られた。
 
コッホの衛生研究所には世界中から俊英が集っていて、常時二十名近くが研究所に出入り していた。また、ベルリン大学の教授職も務めるコッホは三種類のコースを設定して講義し ていた。衛生学コースは週三回、学生に講義し、同じ学生に別枠で研究コースを課した。土
 
曜日には一時間の細菌学研究法を講義した。 コッホは図版や写真、標本、表などを駆使して、
 
かった。この結果を察して良の白石 時間との闘いで、実験の初期には実験台のそばから離れられず、食事も睡眠もとっている 、世界でまだ誰も研究していないテ
 
暇はなかった。体力の限界に挑みながらの実験だったが ーマであり挑戦への意欲が湧いてきた。
 
柴三郎は寝食を忘れて実験に没頭した。
 
ヘルターは柴三郎のそばに来て実験をのぞくものの、何を言っても無駄という風に肩をす
 
くめてみせ、お大事にと一言、言って帰るのが常だった。 柴三郎はコレラ菌について、第一の実験を終え、第二、第三の実験へと進んだ。第一の実
 
験同様の移植や挑戦が強いられた。未知の研究を極めるという目標に気力で邁進した。頬が
 
こけ、眼窩が落ちくぼみ、目に見えて体重が減少するのが自覚できた。食欲も失せ、不眠は 続いた。もはや心身の限界を超えていた。しかし、柴三郎はこの難局を凌いで、研究成果を まとめてコッホに提出した。
 
「もうできたのか・・・・・・」
 
コッホは興味にかられたのか大部の実験報告書を次々に繰っていった。
 
「北里くん、短期間でよくこれだけやれたね」
 
一気に読み終わってコッホはしきりに感心した。柴三郎はコレラ菌の性状を明確にする課
 
題を的確にこなしたのである。
 
コッホはその場で柴三郎に第三番目のテーマを与えた。『人工培養基上に於ける病原及非
 
病原菌に対するコレラ菌の関係』という課題だった。 柴三郎は声もなく、師の顔を見続けた。ようやく実験が終わったばかりで、正直、立って
 
――――少しの休みもない。
 
いるのも大儀だった。それなのに、次のテーマを提示している。だが、コッホの座右の銘に たが
 
思い至り納得した。「しばしも怠ることなかれ」がコッホの口癖である。その精神に違わぬ 指示だった。相次ぐテーマの設定はヘルターも指摘するようにコッホの柴三郎に対する評価
 
の証明という気がして研究心が湧き上がった。
 
柴三郎に再び、実験に次ぐ実験の生活が始まった。
 
と聞いた。
 
かけた。
 
「その通りです」
 
「東京や大阪は上下水道が完備されていないのではないか」
 
石黒は羞恥を覚えた。徳川二百六十年の弊が終わったばかりで、近代化には程遠い現状だ
 
った。石黒は他国からのコレラの侵入をどう防ぐべきかを問いかけた。 海港検疫の方法は、有病地を出港して五日以内、また船中にコレラ患者が乗船していて、 まだ五日間を経過しないとき、入港前にまず船客を上陸させ一カ所に停留し、船内の疑わし
 
い部分、衣服などを消毒する必要があるとコッホは指摘した。 「国際的な常識では五日間が一応の目安だが、もっと長く注意する必要がある」
 
とコッホは指導した。
 
さらに、上下水道の整備を重視するコッホは、長崎、東京、横浜、大阪の水道事情を問い
 
 
今日、日本は世界でも有数の防疫体制が完備された国となり、海外からの伝染病の侵入を 最小限にくい止めている。こうした衛生立国を可能にしたのは、細菌学を通じて伝染病の撲
 
滅に寄与した北里柴三郎ほか、明治の医学者たちの貢献に負うところが大きい 。
 
この柴三郎の「学事至上主義」のために、世間が狂と指弾し、恩知らずと批判しようと、 一向に頓着しない。憂慮するのは、医学真道を踏み迷って岐路に陥ろうとしている日本の医 学界の傾向である、と宣言している。
 
書簡は「柴三郎拜。森林太郎 足下」で結ばれている。レフレルに促され、また柴三郎も 確信しての『学事至上主義」だった。
 
緒方への脚気菌反駁の論文とこの森への反論の手紙は、その後、柴三郎と“東大派”との 長く続く確執のひとつの伏線となった。
 
明治二十一年(一八八八年)六月三日――、ベルリンのフリードリッヒ写真館に、計十九 名の日本人医学者が蝟集した。その後、この陣容でのシャッターチャンスはなかった。
 
日本を遠く離れたドイツ、ベルリンでその場面は切りとられた。奇蹟的な瞬間だった。 陸軍省軍医監、石黒忠恵を中央に当時のドイツ医学留学生が一堂に会したのである。い ず れも帰国後、日本の近代医学の発展に寄与した医学者たちだった。錚々たるメンバーで、いわばエリート集団の記念撮影といえる。
 
「 もしかすると、破傷風菌は気腫疽菌と同じ性質ではないか」
 
と柴三郎は考えたのである。気腫疽菌で抱いた発想を破傷風菌に応用しようと思った。
 
 
今日、破傷風菌も気腫疽菌も、空気を嫌う菌、つまり嫌気性菌と判明している。柴三郎が
 
破傷風菌の純粋培養を世界で初めて可能にしたのは、気腫疽菌への好奇心によるものだった。 それにしても、嫌気性菌の実験は危険極まりなかった。柴三郎の報告書には、検証のため の実験を行なう場合、水素ガスを発生させるときは爆発させないよう注意を促している。
 
柴三郎は寝食を忘れた一年にわたる研究の後、破傷風菌の純粋培養を成功させた。そして、
 
顕微鏡標本と動物試験の実験結果を持ってコッホに報告した。
 
「北里くん、きみは世界で誰も成し得なかったことを可能にした。すぐ、論文にしたまえ」 コッホは門下生の成功を喜ぶとともに、教育者としての配慮を忘れなかった。
 
柴三郎 は破傷風菌の研究業績を「独逸医事週報」とコッホの主な
 
ある伝染病に一度罹って治ると生涯、再び同じ伝染病には罹らない場合を「免疫」という。 柴三郎がベルリンに留学していた当時、十九世紀の後半――、免疫という概念は既にあっ
 
た。「疫病から免れる」という意味である。
 
象徴的な例は、一七九六年(寛政八年)にイギリス人外科医、エドワード・ジェンナーが
 
発見した種痘法である。ジェンナーが牛の乳搾りをする者から、牛痘に罹った者は天然 痘 (痘瘡)に罹らないという言葉を聞いたのが種痘の契機だった。牛痘を人工的に人に接種 し て天然痘に対して免疫を得ることに成功した。天然痘は痘瘡ウイルスがヒトからヒトに感染 して発症する。一週間程度の潜伏期を経て、高熱を発し、解熱とともに紅斑が顔から全身に
 
しかし、種痘という予防手段により免疫を得て、人類はこの業病から解放されたのである。 コレラやペスト、結核と並んで、人類を苦しめ続けた天然痘という病気から安全地帯に抜け 出る手段を得たのだった。
 
この天然痘は一九七九年(昭和五十四年)十月、WHO(世界保健機関 けて根絶が宣言された。この地球上に一人の天然痘患者もいなくなった。 )によって世界に向
 
 
以上 を経過していた。
 
させていた。
 
物質である。慣れではない。これは新発見だった。破傷風の純粋培養に成功してから一年
 
こうどくそ 柴三郎は後にこの物質に「抗毒素」と名付けている。今日でいう、抗原抗体反応の「抗 体」にあたる。歴史的にみれば、柴三郎は世界初の抗体の発見者である。 柴三郎はこの抗毒素の実験結果をまとめてコッホに報告した。コッホはその成果にただ驚 くばかりだった。報告書は免疫血清療法の基礎を呈示し、将来性のある有力な治療法を展望
 
「 これはたいへんな発見だよ、北里くん。ベーリングとともに、この実験を続けたまえ」
 
コッホは指示した。
 
ベーリングは当時、ジフテリアを研究していた医学者だった。
 
 
そして、最後は「われわれの実験の結果は『血液はまったく特殊な液体である」という言 葉 を強く想い起こさせる」で締めくくられている 。
 
世界に向け血清療法発見を告げる論文だった。伝染病に対する原因療法が一つもない時代
 
ところで、ベーリングノーベル賞を受賞して、なぜ北里柴三郎が受賞しなかったのか。
 
筆者は同時受賞が最も妥当と考えるが、結果的にはベーリング一人が受賞している。 破傷風免疫体(抗毒素=抗体)の発見は柴三郎であるから、ノーベル賞が人類に貢献した
 
原理発見者に与えられる賞なら、公平に見て、むしろ柴三郎に与えられてしかるべきだった。 事実、柴三郎はノーベル賞の候補にはあがっていたが、受賞しなかった。
 
これにはいくつかの理由が考えられる。
 
ヒトへの伝播はない。 まず、破傷風ジフテリアの病気の違いがある。破傷風菌は空気を嫌う菌なので、体表か ら深い部分の創傷の場合に増殖する。この増殖の際に毒素を産生して発病する。しかし、ヒ トは深部の創傷をそうたびたび負う機会はない。また、たとえ、破傷風に罹ってもヒトから
 
露呈したためだった。 それよりも何よりも、有色人種に対する差別意識と極東の小国にす
 
ゆるにひきかえ、ジフテリアは患者や保菌者の咳やくしゃみで飛沫感染し、ヒトからヒト
 
へ染る。一旦流行すると、大流行のおそれがあり、社会的恐怖を呼ぶ。その年の状況にもよ
 
るが、ジフテリアの患者数は破傷風の数百倍に及ぶ。また、ジフテリアのほとんどが子ども の患者で、破傷風に比べ、ジフテリアのほうが、悲惨で目立つ病気だった。 さらに、治療に用いられる抗毒素血清であるが、ジフテリアの場合、症状が顕著で初期症 状で使われやすく、治療効果が顕著である。それにひきかえ、破傷風の場合は感染してから 特有の症状が出るまでに時間がかかり、抗毒素血清を使っても顕著な効果を期待できないケ
 
ースがしばしば見受けられた。
 
結果的に、北里柴三郎のほうが分の悪い病気を選んだようだった。また、ノーベル財団の 体制が整っていなかった点も否めない。アルフレッド・ノーベルは一八九六年十二月に死去 しているが、財産の処分に四年余を費やし、一九〇〇年に賞の定款が作られた。その翌年の 一九○一年にベーリングが第一回のノーベル賞を受賞している。創設早々で慌ただしく、選 考に不備があったとも考えられる。
 
 
お正同答が溶いた やがて、この新薬はコッホによって、ツベルクリンと名付けられた。ツベルクリン療法と いう、結核に対する新しい治療法の出現だった。製法が伏せられた治療薬は、神秘性とコッ
 
ホの威光が加味され、日増しに関心と期待は高まっていった。
 
魔法の液体で治療を願う結核患者は列車を乗り継いでクロスターに押しかけた。混乱 に拍車がかかって、柴三郎たちも自由に研究所に出入りできなくなった。
 
コッホはツベルクリン療法について、モルモットによる動物実験をすでに柴三郎に命じて い た。柴三郎はこの画期的研究の基礎データ作りに参加していたのである
 
「北里くん、この騒ぎはいつまで続くかね」
 
コッホは恨めしそうに窓の下を見やった。
 
「 静かな環境が欲しいよ」
 
諦めたように呟くと自室に戻って行った。
 
ベルリン、いや世界は、コッホのツベルクリン療法の発表で震撼した。
 
るつぼ このコッホの発表を聞いて、イギリスからいち早く興奮の坩堝と化しているベルリンのク
 
ロスター街に駆けつけた人物がいる。
 
 
名探偵シャーロック・ホームズの生みの親、作家のドイルは名門エディンバラ大学医学部
 
出身の医者でもある。ツベルクリン療法に興味を示し、ドーバー海峡を越えてベルリンに駆 けつけた最初のイギリス人医師だった。
 
このとき、三十一歳のドイルはツベルクリンに対し、シャーロック・ホームズ並みの“推
 
理 』を働かせて取材し、原稿も書いた。
 
柴三郎はその右手を固く握った。高貴な家柄出身のその手は柔らかかった。
 
「先ほど、本国から電報が届いた」
 
西園寺は一片の紙を柴三郎に示した。
 
在独逸国留学内務省技手医学士北里柴三郎儀同国ニ於テ専ラ肺病治法研究中ノ処昨今留
 
学期限満期二付尚継続講究セシメ度旨ヲ以テ学資下賜ノ儀出願之趣及上奏候処特旨ヲ以テ金
 
Xiangchenghouの贈り物の下で千元、Yuquyiの厚い部分、体への献身、そしてその効果はXiangdahouのような期間があることを示すことによって達成することができます。
 
明治23年12月11日
 
 
子爵土方久元』
 
柴三郎は三回読み直した。しばらく震えが止まらなかった。
 
「陛下から御下賜金がいただけるのですか」
 
全く予想外の成り行きだった。文面では千円が支給されると出ている。巡査の初任給が八
 
円 の時代である。千円は破格の援助だった。
 
「そうだ。有り難いお話だ」
 
「感謝しても・・・・・・」
 
あとは言葉にならなかった。やがて、涙が溢れてきた。
 
 
った。 病気で倒れないようにするための杖であり、健康を維持するための杖であるとコッホは言
 
「杖、ですか」
 
コッホは磨き終わった眼鏡をゆっくりと顔にかけた。髭は見事に手入れされていた。
 
「杖になればいいと思うようになった」
 
柴三郎はコッホが何を言いたいのか解しかねた。
 
「そう、杖だ。バクテリウム(細菌)の意味はどこからきているか知っているね」
 
柴三郎はギリシャ語で、短い杖、と聞いていた。
 
「そうだ。短い杖だ。もちろん、形状からきているのだが、杖は国民のための杖ではないか
 
と思うこの頃だ」
 
 
―――学会への招きか。
 
所長に・・・・・・。
 
おそらく臨時の学会だろうと思いながら、封を切った。手紙は意外にも学会通知ではなく、 柴三郎のケンブリッジ大学への招聘だった。大学の病理学部に細菌学研究所を新設するに付
 
さ、柴三郎に対し所長に就任してもらえないかという誘いである。
 
柴三郎はただただ驚いた。ケンブリッジ大学といえば、十三世紀に創立されて以来の歴史 」を有し、オックスフォード大学と並んで伝統のある名門の私立大学である。そこの新設研究 所所長への招聘だった。研究所の青写真はできていて、建物の規模や研究設備、所長として の待遇など、すべて理想的だった。研究者を厚遇する国の土壌が反映していた。
 
研究実績をあげたい研究者なら誰でも招きに応じたいほどの好条件だった。だが、柴三郎
 
 
ケンブリッジ大学からの招聘は、世界的な評価を受けた証でもある。自分を世界にアピー
 
ルする絶好の機会ではないか」
 
大学は破格の待遇を用意してまで柴三郎という人材を欲しかったのだが、柴三郎はそれで
 
も翻意しなかった。
 
「なぜ承諾しないのか。こんな良い条件は二度とない」
 
別の同僚も口惜しがった。
 
柴三郎は招聘の話を忘れ、留学最後の年をコッホの研究所でツベルクリン法研究の完成 に費やした。連日、実験に明け暮れた。朝から晩まで実験室に閉じ籠もっていても、少しも
 
疲労を覚えなかった。
 
実験が一番だ。
 
実験機材や顕微鏡に囲まれていると、それだけで心が休まるのを感じ、細菌学を自らの人
 
生の目的として選択したのは間違いではなかったと思った。
るので驚いている」
 
何 「その北里の件で、きみに相談がある。じつは昨日かれに会ったのだが、家でくすぶってい
 
かと縁のある男だ、気になっていると長与は言った。
 
「家で・
 
・・・・・。内務省に出仕していないのか」
 
「 一応、中央衛生会の委員ではある。だが、これはかれ本来の仕事ではない」
 
 
さま 十一歳、適塾に入門した翌年の安政三年(一八五六年)には腸チフスで苦しんでいる。さら に、明治三年(一八七○年)には発疹チフスに罹り、十八日間人事不省に陥り、生死の境を
 
言ではない」 「
 
福沢は子どもの頃から、かなり病気を体験している。五歳のときに軽い天然痘に罹り、二
 
彷徨った。医学には特別の思い入れがあったのであった。
 
伝染病をいかに予防し、撲滅するか。そこに、この国の将来がかかっているといっても過
 
さかわ 福沢は力をこめて強調した。ちょうど、この夏、二女・房が肋膜炎を患い福沢は極度に心 配した。幸い、一カ月でほぼ全快した。その後、保養で酒匂句の松濤園に福沢も同行して約一
 
カ月間逗留し、静養して数日前に帰ってきたばかりだった。
 
 
 
・「学者というのは酒飲みと同じというのがわたしの意見だ。酒飲みは黙っていても我慢できずに飲む。学者も学を好んで、放っておいても研究に励む。だが、いまの北里くんは気の毒だ。学ぼうにも、その場所がない。芝にわたしの土地がある。そこにとりあえず研究所を建てたらどうだろうかと考えている。
 
 
「研究所というにはおこがましい規模かもしれないが、小さくてもまず動かなければ何も生
 
まれない」
 
福沢は言った。
 
長与は応じた。
 
 
その通りだ。今は大きさではない。始めることが大事だ」
 
ペストは「黒死病」とも呼ばれ、陸地で国境を接しているヨーロッパで特に恐れられてい た。十四世紀の大流行では二千万人以上がこの伝染病で死亡し、人口の四分の一が消滅した。 その後も流行を繰り返し、いわば人類の業病、最悪の流行病のひとつに数えられていた。
 
今日、ペストはその実態が解明されている。鼠類の病原菌であるペスト菌によって発生す る伝染病である。鼠類についたノミがペスト菌を含んだ血液を吸ってこのノミがヒトを刺し 伝播する。ペスト患者の分泌物や血液に接触しても染る。一般的な観ペストの場合、潜伏期 は一~七日で、突然高熱に侵され、頭痛や体力消耗、意識障害などの症状が出て、皮膚は乾 燥して紫黒色になる。肺ペストでは、肺炎症状が起こる。治療法を確立していなかった時代 には、流行の最盛期、致死率は九割を越え、発病はそのまま死を意味していた。黒死病とい
 
う、死の勝利」の前に、人々は祈るしか救いの術はなかった。今日でも日本では、感染症
 
下、届け出伝染病に指定されている。ラッサ熱やエボラ熱と並んで、最も注意を要する「1 類感染症」に位置づけられている。
 
 
る。
 
だが、病原を確定するには、「コッホの三条件を満たさねばならない。つまり、この菌 は、ペスト患者の血液や内臓にのみ存在する、他の伝染病患者には存在しない、動物に接種
 
するとペスト同様の症状が起きる、という三条件を満たす必要があった。コッホの下で学ん だ柴三郎にとって、この世界的な三条件を確認しなければ学問的な発表はできないと考えて いた。いわば、「コッホの三条件」は柴三郎にとって、金科玉条だった。破傷風菌の純粋培 養も「三条件」を確信したからこそ成功した。
 
柴三郎は研究を続けた。そして、死体五例と患者三十例から得られた実験データと、動物 試験を通して、ペスト菌の発見に自信を深めた。「コッホの三条件」をクリアできたのであ
 
――――よし、こっで大丈夫たい。
 
柴三郎は六月十八日にペスト菌発見を公表した 。 この報は翌日の午前中に内務大臣に伝えられ、二十一日には新聞でも報道された。柴三郎 はさらに、コッホ研究所や香港政庁を通じ、英国植民地大臣にも伝えた。ニュースは海外へ
 
「野口君、きみは英語が話せたね」
 
らしていなかった。
 
へりくだ 「いえ、お世話するというほどではありません。拙い通訳でした」 野口は謙って言った。しかし、内心では謙遜とは裏腹に得意だった。帝大出のエリート 医学者をさしおき、アメリカの大学教授との間を取り持ったのである。
 
柴三郎は通訳と案内役を頼み、帝国ホテルにフレクスナーを迎えに行くように命じた。
 
野口の英語は自己流で、未熟な域を超えていなかった。だが、ドイツ語が主流の伝染病研
 
究所では、野口の英語力に希少価値を見い出していた。独学とはいえ、語学力は天才的で、
 
どこの国の言葉であれツボをつかむのが早かった。
 
野口はそのフレクスナーと志賀が会談した折、通訳したのである。図書係でくすぶってい た野口はチャンスをつかんだ。フレクスナーと個人的に会話を交わした機会に、彼のペンシ ルバニア大学への異動を知り、その住所も聞き出している。もちろん、そのときフレクスナ ーは、単なる通訳と思っていた者が後年、何のアポイントもなく突然訪ねて来るとは予想す
 
「 いや、なかなかの英語だった」
 
これはいわば志賀の外交辞令だった。ペスト菌発見の期待に水をさされて気が抜けている
 
人物への同情かもしれなかった。
 
それから、志賀は野口の案内で隔離病棟に収容されている中国人患者の容体を診て、横浜
 
 
で、コッホは柴三郎が自分の第一の門弟であり、帰国後、十五年間に成し遂げた実績
 
は かねて予見した通り画期的な成果だったと強調した。 ――――晴れがましいこつある。
 
居並ぶ貴神を前にして述べられたコッホの賛辞に、柴三郎はひたすら感激していた。恐 懼し晩餐会の料理を味わう余裕はなく、スープで舌を湿らせただけだった。 コッホの日程や発言はそのつど新聞で報道された。世界を代表する細菌学者の言動は注目 の的だったのである。後年、大正十一年に相対性理論で知られる理論物理学者、アインシュ タインが来日して、その一挙手一投足が報じられた。
 
明治・大正期に来日した科学者の注目度では、コッホとアインシュタインは双璧だった。