今年の新札の顔、ともいうべき北里柴三郎。以前、新聞の一面に載ったこの記事を読んで感動した。
あらためて上下巻、数百ページを読んでみて、感動、感動、また感動っ!!!今年読んだ本のベスト3入り間違いなしだね。ワタシのブログ18年の中で最長の文字数となりました。(笑)
ということで、ご縁がありまして、10月6日(日)朝6時〜の「朝6読書会」で北里柴三郎の話をすることになりました。前日の5日(土)には津田梅子を紹介します。参加費無料、予約不要、顔出しなしで参加できますので、よろしければ早起きしてご参加ください。
ミーティングID: 886 3924 1948
タイトルの「雷」とは、「ドンネル(ドイツ語でder Donner=雷おやじ)」と呼ばれていたことに由来するらしい。明治生まれの気骨な柴三郎をあらわす言葉。いいなあ。
かなり長文になりますが、北里柴三郎の生涯のそのエッセンスを紹介しよう。
年譜
1874年(明治7年21歳)東京医学校に入学
1885年(明治18年32歳)ドイツ留学を命じられる
第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞。
1905年(明治38年52歳)【コッホ(62歳)ノーベル生理学・医学賞を受賞】
伝染病研究所を白金台町に移転。
1908年(明治41年55歳)恩師ローベルト・コッホ夫妻来日、日本各地を案内する
1910年(明治43年57歳)コッホ死去。翌年、伝染病研究所内にコッホ祠を建立
所長を辞任。同日、私立北里研究所を設立。
北里研究所所屋竣工、開所式を行なう。
1916年(大正5年63歳)生誕地熊本県小国町に「北里文庫」を寄贈
・「医者は誇りを持たねばならない。 いまの医者は自分の栄華だけを折り、高貴富豪の前で揉み手をして卑下している。 予防が医道の基本である。 人民に摂生と保健の方法を教え、健康の重要性を説かねばならない」
・じつに立派な演説だったと三宅は言った。 柴三郎は「医道論」と題して、和紙八枚にわたる演説草稿を認め、 事あるごとに自身の医学論、公衆衛生論を訴えていた。 これは同盟社の主将として医学生に主張した、柴三郎のいわば、医学哲学だった。
・熊本の時習館時代、 柴三郎はまだ医者を生涯の目標として定めていなかった。 軍人を志望し、医者は軽く見てむしろ避けていた。だが、オランダ人医師、 マンスフェルトと出会って 指導を受けるうち、考えが一変した。医学の学問的深淵を知り、 将来の進路は医者に向かったのである。
・明治初期、人口が都市に流入して密集化が進み、また、 海外との交流も盛んとなって伝染病の流行する条件が揃ってしまった。伝染病は国民を疲弊させ、 国力を削ぐ。明治政府にとって、 伝染病との闘いは焦眉の急だった。
・医学部を卒業して医学士の資格を得ると、普通、 地方の病院長か医学校長になって土地の 名士になるのが通常のコースだった。そして、 そのまま土地に残って臨床医や教育者として活動するか、 再び東京に戻って次のステップを踏むかのどちらかだった。
・明治新政府は封建制からの脱皮をはかり、 また富国強兵を推し進めるため、有為な人材を 先進国に派遣して各種の制度を学ばせた。そして、 近代国家を形成するに相応しい種々の法律―――郵便規則制定、メートル法や太陽暦の採用、 徴兵令や貨幣条例公布、学制などを制定していった。明治二十二年(一八八九年)、 大日本帝国憲法を発布し、帝国議会の開催をもって、一応、近代国家としての形を整えた。
「医制」も日本の近代化を示すひとつの法律だった。 国民の健康保護と近代医師の養成は時 代の急務であった。
・「柴三郎は命がけで東京にきて、 働きながら死ぬほど勉強しとっと。ここで諦めたら、 それが無駄になる」
・ 「ああ、衛生学、それに細菌学の論文たい。 時代の先端ば行く学問たい」
「わたしには分からない話ですわ」
「時代の最先端ば行く学問だけん、これからどぎゃんなって、 何が発見されるっか誰にも分からん。だけん、やってみる価値があっと思うとたい」 ドイツのローベルト・コッホによる炭疽菌や結核菌の発見以来、 世界の医学は。細菌の狩人の時代に入っていた。
「ドイツに留学ばしたかと思う。これはわしの夢たい」
本当はコッホの元で研究したいと言いたいところだったが、 畏れ多く、また気恥ずかしくもあった。相手は世界最高峰の細菌学者である。誰が考えても、 夢のまた夢でしかなかった。
「ぜひ、叶えてください」
雨は夫の成功に期待していた。そして、 お茶を淹れかえましょうと立ち上がった。
・明治時代、医者として開業資格を得るには、 いくつかの方法があった。一定の条件を満たした大学の医学部を卒業すれば文句なく開業の資格が得られた。 しかしこれは、人数も限られ、学資も必要で、 資産家かよほどの秀才でもなければ入学できなかった。
医者を養成する予備校的な学校に通い、 医術開業試験を受けるのも医者の資格を得る有力な手段だった。 大学とは別の場所で医学の知識と臨床の技を身につけた後に試験を 受けるのである。 野口英世はこのルートで医者になった一人である。
明治維新後、中国からたびたびコレラが侵入した。特に、 明治九年から十二年にかけて大流行し、十六万人余の患者が出て、死者は十万人を超えた。 当時の総人口、約三千六百万人を考えると、千人に三人の割でコレラで死亡した計算になる。
明治十年以降の六年間に二十四万人近くのコレラ患者が発生し、 約十六万人弱が死亡していた。 江戸時代に、「コレラ、ころり」と恐れられた病気は明治に入り、 これまで以上に市民生 活を脅かしていた。鎖国時代とちがって、 海外との交流が盛んになった分、 感染症の侵入の機会が増えていた。
・肉眼で見えない細菌が二百倍、三百倍に拡大されて見える。 こんなに楽しい体験はほかではできない。
コレラの原因であるコレラ菌は、明治十六年にローベルト・ コッホによって発見されてい たが、 コレラがどのような経路で感染するのかははっきりしていなかった 。また、コレラ菌以外を原因と考える説も有力視され、混沌としていた。
・翌日から柴三郎のベルリン大学衛生研究所での研究生活が始まった 。ホテルを引き払い、 柴三郎はレフレルに教えられて、 研究所にほど近いクロスター街のアパートに部屋を借りた。 研究所にはよその施設には置かれていない最新式の顕微鏡やスライ ドガラス、蒸気滅菌器、 凍結装置、各種の培地などが用意されていた。 内務省の東京試験所とは、量も質の上でも雲泥の差があり、こうした器具器材に馴れねばならなかった。
・北里くん、きみはなぜ医者、 それも細菌学を学ぶ気になったのかね」「顕微鏡です。先生」「ほう、それは面白い」「何がですか」「いや、コッホ先生と似ている」
――――顕微鏡がコッホを変えたのか。
二十世紀半ば、 電子顕微鏡の登場でウイルスの研究が飛躍的に進んだのと同様、 十九世紀の後半、 光学顕微鏡の日進月歩の発達で細菌学は格段の進歩を遂げた。 その先頭にいたのが柴三郎は自らの細菌学研究の歩みを振り返り、 コッホと同じ道をたどっているというだけで力づけられた。
・コッホの衛生研究所には世界中から俊英が集っていて、 常時二十名近くが研究所に出入り していた。柴三郎は、時間との闘いで、実験の初期には実験台のそばから離れられず、 食事も睡眠もそこでとっている。休んでいる暇はなかった。体力の限界に挑みながらの実験だった。柴三郎は寝食を忘れて実験に没頭した。
…未知の研究を極めるという目標に気力で邁進した。頬がこけ、眼窩が落ちくぼみ、 目に見えて体重が減少するのが自覚できた。食欲も失せ、不眠は 続いた。もはや心身の限界を超えていた。しかし、 柴三郎はこの難局を凌いで、研究成果をまとめてコッホに提出した。
「もうできたのか・・・・・・」
コッホは興味にかられたのか大部の実験報告書を次々に繰っていっ た。
「北里くん、短期間でよくこれだけやれたね」
一気に読み終わってコッホはしきりに感心した。 柴三郎はコレラ菌の性状を明確にする課題を的確にこなしたのである。
コッホはその場で柴三郎に第三番目のテーマを与えた。『 人工培養基上に於ける病原及非病原菌に対するコレラ菌の関係』という課題だった。 柴三郎は声もなく、師の顔を見続けた。 ようやく実験が終わったばかりで、正直、立っているのも大儀だった。それなのに、次のテーマを提示している。「少しの休みもない」。 だが、コッホの座右の銘に 思い至り納得した。「しばしも怠ることなかれ」 がコッホの口癖である。柴三郎に再び、実験に次ぐ実験の生活が始まった。
・「東京や大阪は上下水道が完備されていないのではないか」
石黒は羞恥を覚えた。徳川二百六十年の弊が終わったばかりで、 近代化には程遠い現状だった。 石黒は他国からのコレラの侵入をどう防ぐべきかを問いかけた。 海港検疫の方法は、有病地を出港して五日以内、 また船中にコレラ患者が乗船していて、 まだ五日間を経過しないとき、 入港前にまず船客を上陸させ一カ所に停留し、船内の疑わしい部分、衣服などを消毒する必要があるとコッホは指摘した。
・今日、日本は世界でも有数の防疫体制が完備された国となり、 海外からの伝染病の侵入を 最小限にくい止めている。こうした衛生立国を可能にしたのは、 細菌学を通じて伝染病の撲滅に寄与した北里柴三郎ほか、 明治の医学者たちの貢献に負うところが大きい 。
・柴三郎の「学事至上主義」のために、世間が狂と指弾し、 恩知らずと批判しようと、 一向に頓着しない。憂慮するのは、 医学真道を踏み迷って岐路に陥ろうとしている日本の医 学界の傾向である、と宣言している。
書簡は「柴三郎拜。森林太郎 足下」で結ばれている。レフレルに促され、また柴三郎も 確信しての『学事至上主義」だった。
緒方への脚気菌反駁の論文とこの森への反論の手紙は、その後、 柴三郎と“東大派”との 長く続く確執のひとつの伏線となった。
当時のドイツ医学留学生は、いずれも帰国後、日本の近代医学の発展に寄与した医学者たちだった。 錚々たるメンバーで、いわばエリート集団の記念撮影といえる。
「もしかすると、破傷風菌は気腫疽菌と同じ性質ではないか」
「北里くん、きみは世界で誰も成し得なかったことを可能にした。 すぐ、論文にしたまえ」 コッホは門下生の成功を喜ぶとともに、 教育者としての配慮を忘れなかった。
・最後は「われわれの実験の結果は『 血液はまったく特殊な液体である」という言 葉 を強く想い起こさせる」で締めくくられている 。世界に向け血清療法発見を告げる論文だった。
筆者は同時受賞が最も妥当と考えるが、 結果的にはベーリング一人が受賞している。 破傷風免疫体(抗毒素=抗体)の発見は柴三郎であるから、 ノーベル賞が人類に貢献した原理発見者に与えられる賞なら、公平に見て、 むしろ柴三郎に与えられてしかるべきだった。 事実、柴三郎はノーベル賞の候補にはあがっていたが、 受賞しなかった。
これにはいくつかの理由が考えられる。
まず、破傷風とジフテリアの病気の違いがある。 破傷風に比べ、ジフテリアのほうが、 悲惨で目立つ病気だった。結果的に、北里柴三郎のほうが分の悪い病気を選んだようだった。 また、ノーベル財団の体制が整っていなかった点も否めない。アルフレッド・ ノーベルは1896年十二月に死去 しているが、財産の処分に4年余を費やし、1900 年に賞の定款が作られた。その翌年の 1901年にベーリングが第一回のノーベル賞を受賞している。 創設早々で慌ただしく、選考に不備があったとも考えられる。
・病気で倒れないようにするための杖であり、 健康を維持するための杖であるとコッホは言った。「杖、ですか」
コッホは磨き終わった眼鏡をゆっくりと顔にかけた。 髭は見事に手入れされていた。
「杖になればいいと思うようになった」
柴三郎はコッホが何を言いたいのか解しかねた。
「そう、杖だ。バクテリウム(細菌)の意味はどこからきているか知っているね」
柴三郎はギリシャ語で、短い杖、と聞いていた。
「そうだ。短い杖だ。もちろん、形状からきているのだが、 杖は国民のための杖ではないかと思うこの頃だ
・「学者というのは酒飲みと同じというのがわたしの意見だ。酒飲みは黙っていても我慢できずに飲む。学者も学を好んで、 放っておいても研究に励む。だが、いまの北里くんは気の毒だ。学ぼうにも、その場所がない。芝にわたしの土地がある。 そこにとりあえず研究所を建てたらどうだろうかと考えている。
「研究所というにはおこがましい規模かもしれないが、 小さくてもまず動かなければ何も生まれない」福沢は言った。長与は応じた。「その通りだ。今は大きさではない。始めることが大事だ」
・ペストは「黒死病」とも呼ばれ、 陸地で国境を接しているヨーロッパで特に恐れられてい た。十四世紀の大流行では二千万人以上がこの伝染病で死亡し、 人口の四分の一が消滅した。 その後も流行を繰り返し、いわば人類の業病、 最悪の流行病のひとつに数えられていた。
今日、ペストはその実態が解明されている。 鼠類の病原菌であるペスト菌によって発生す る伝染病である。 鼠類についたノミがペスト菌を含んだ血液を吸ってこのノミがヒト を刺し 伝播する。ペスト患者の分泌物や血液に接触しても染る。治療法を確立していなかった時代には、流行の最盛期、致死率は九割を越え、 発病はそのまま死を意味していた。
・柴三郎はペスト菌を発見したが、病原を確定するには、「コッホの三条件」 を満たさねばならない。つまり、この菌は、ペスト患者の血液や内臓にのみ存在する、 他の伝染病患者には存在しない、動物に接種するとペスト同様の症状が起きる、 という三条件を満たす必要があった。コッホの下で学ん だ柴三郎にとって、 この世界的な三条件を確認しなければ学問的な発表はできないと考 えて いた。いわば、「コッホの三条件」は柴三郎にとって、 金科玉条だった。破傷風菌の純粋培養も「三条件」を確信したからこそ成功した。
柴三郎は6月18日にペスト菌発見を公表した 。 この報は翌日の午前中に内務大臣に伝えられ、 二十一日には新聞でも報道された。柴三郎 はさらに、コッホ研究所や香港政庁を通じ、 英国植民地大臣にも伝えた。ニュースは海外へも報道された。
・野口の英語は自己流で、未熟な域を超えていなかった。だが、 ドイツ語が主流の伝染病研究所では、野口の英語力に希少価値を見い出していた。 独学とはいえ、語学力は天才的で、どこの国の言葉であれツボをつかむのが早かった。
野口はそのフレクスナーと志賀が会談した折、通訳したのである。 図書係でくすぶってい た野口はチャンスをつかんだ。 フレクスナーと個人的に会話を交わした機会に、彼のペンシ ルバニア大学への異動を知り、その住所も聞き出している。 もちろん、そのときフレクスナ ーは、単なる通訳と思っていた者が後年、 何のアポイントもなく突然訪ねて来るとは予想するはずもなかった。
・1908年(明治41年)来日したコッホは柴三郎が自分の第一の門弟であり、帰国後、 十五年間に成し遂げた実績はかねて予見した通り画期的な成果だったと強調した。「晴れがましいこつある」居並ぶ貴神を前にして述べられたコッホの賛辞に、 柴三郎はひたすら感激していた。
コッホの日程や発言はそのつど新聞で報道された。 世界を代表する細菌学者の言動は注目の的だったのである。後年、 大正十一年に相対性理論で知られる理論物理学者、アインシュタインが来日して、その一挙手一投足が報じられた。明治・ 大正期に来日した科学者の注目度では、コッホとアインシュタインは双璧だった。
コッホの日程や発言はそのつど新聞で報道された。
このブログに書ききれない。再読したほうがいいね。今年のベスト3入り、間違いないし。超オススメです。(^^)