「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「起業の天才 江副浩正 8兆円起業リクルートをつくった男」(大西康之)

 
大学4年のころ、農学部の同級生がみな、食品、薬品、お酒などの「食」を中心とした会社への就職をめざしていたころ、オチコボれていた私は、教授や先生や専門性に頼らず、自分が働きたい会社を探していた。そのときに自宅に送られていたのが分厚いリクルートブック」。そのときはじめてきいたリクルートという単語。
 
そして見つけた建設資材の会社に入社後の適性検査と企業研修で再度耳にしたのがリクルート!我々の世代はみな、そうだったよね。そしてその後リクルート事件で社会をにぎわすことになろうとは!。
 
 
ジェフ・ベゾスは、このヤバい日本人の「部下」だった】かつて日本には、「起業の天才」がいた。リクルート創業者、江副浩正。インターネット時代を予見、日本型経営を叩き潰し、自分では気が付いていない才能を目覚めさせた社員のモチベーションを武器に彼がつくろうとしたのは、「グーグルのような会社」だった。だが彼の名は「起業の天才」ではなく、戦後最大の企業犯罪リクルート事件の主犯」として人々に記憶される。

ベンチャー不毛の地」となった日本に必要な「起業家の資質」とは何かリクルート事件の大打撃を乗り越え1兆8000億円の負債を自力で完済、株式時価総額で国内10位にまで成長した「奇跡の会社」はどのようにつくられたのか。苦境に立ち逆風に向かうすべての日本人に贈る、歴史から葬られた「起業の天才」の真の姿」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・かつて日本には、江副浩正という「起業の天才」がいた。彼が立ち上げたリクルートは、今や株式時価総額が7兆円を超え、国内10位。総合情報産業の会社として屈指の存在となった。だが彼の名は「起業の天才」ではなく、戦後最大の企業犯罪「リクルート事件の主犯」として人々に記憶された。
 
・大学を出てすぐに自分の会社をつくった江副さんは、経営者とはなにか」がよく分からなかった。自分は経営が分かっていない」という欠乏感の塊でした。経営者とはなにか、経営者ならなにをすべきかを経営学者のピーター・ドラッカーの本から懸命に学び、純粋にそれを実行したのです。それゆえ、リクルートは「ファクトとロジック」「財務諸表と経営戦略」の会社になりました。人の情緒に訴えるカリスマ経営」の対極に位置する、日本では珍しいタイプの会社です。
 
江副さんの経営には「顕教」と「密教」がありました顕教来たるべき情報化社会の先頭に立つ」という超理想主義だとすれば、その情報を利用した株の空売りこすっからく儲ける」部分が密教です。その多面性こそが、江副浩正という人の特徴でした。そんな江副さんがダークサイドに堕ちてしまったのは、彼を乗りこなす騎手、つまりまともなエンジェル投資家が日本にいなかったからです。その状況は今も変わっていません。リクルートが他のベンチャーと異なるのは、江副さんという強烈なキャラクターの創業者が去った後も、会社として成長し続けたところです。理論が大好きな江副さんは、創業メンバーと一緒に、会社が成長し続ける「仕組み」を作りました。江副さんが構築した思想体系を信奉していたから、江副さんがいなくなってもブレずに目的合理的な資本主義を貫くことができたのです。
 
江副浩正こそ、まだインターネットというインフラがない30年以上も前に、アマゾンのベゾスやGoogleラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリンと同じことをやろうとした大天才だった。その江副を、彼の「負の側面」ごと全否定したがために、日本経済は「失われた30年」の泥沼にはまり込んでしまったのである。
 
・私(筆者)は、江副浩正の生涯をたどることで、戦後日本が生んだ稀代の起業家があのとき見ていた景色、そして「もし」この男の夢が実現していたら、どんな日本になっていたのかを考えてみたい。未完のままのイノベーションを完成させてみたい。コロナ禍という人類未曾有の危機にある私たちが、今からこの国で、未来を切り開き、生きぬいていくためにも。
 
「売るんじゃない。配るんだ」「求人広告だけの雑誌」ー『企業への招待』から始まった、リクルートの情報誌ビジネスのいったいどこが革新的だったのか。一言で言えばインターネットのない時代の「紙のグーグル」だったのである。つまり、情報がほしいユーザーと、情報を届けたい企業を「広告モデル」(ユーザーには無料)によってダイレクトに結びつけたのだ。
 
・誰がどんな人材を欲しがっているかという「需要」の情報と、どこにどんな人材がいるかという「供給」の情報が、交差する場所。日本リクルートセンターは巧まずして人材情報のハブ(結節点)」になった。「データ・イズ・マネー」今なら当たり前の考え方だが、1960年代の日本にそれを理解する者はいなかった。
 
リクルートの『創業25周年記念誌』に江副の次女が寄せた文章がある。〈先日、父の部屋で話をしていた時のことです。お父さんの一番大切なもの、何だと思う?」と聞かれました。わたしがわからないでいると続けて次のように言いました。それはね、おまえたちには申しわけないと思うけれど、リクルートなんだよ。でも、おまえたちはリクルートの次に大切だからな」〉江副は、最初から最後までトップの座を守り、大切な会社を守り切ったのである。
 
・子供のころから「親分肌」ではなかった江副は、大勢の人間を束ねる方法がわからない。僕にはカリスマ性がない」というコンプレックスと闘っていた江副は、社員に喜んでもらうため、福利厚生に惜しみなくカネを使った。
 
・「江副さんは長嶋茂雄なんですよ。長嶋の自宅の傘立てにバットが1本、無造作に放り込んであった。1959年の天覧試合で2本のホームランを打って長嶋がスターになったときのバットだったという話があります。長嶋はホームランを打った瞬間にパーッと最高に気持ちよくなる。でもダイヤモンドを回ってベンチに戻ったころには、もうその快感は消えていて、ホームランを打ったバットなんてどうでもいい。江副さんも、新しい事業を発想したり、土地や株を買ったりして、思い通りにいった瞬間が気持ちいい。長嶋は打席に入るとき、三振したらどうしよう、とは微塵も考えない。江副さんも一緒。失敗したらどうしようとか、いっさい考えない。ふたりはその瞬間のために生きている
 
・江副と森田はグーグルマップが始まる20年前にその可能性を見抜き、コンピューター・マッピングの市場規模を「2〜3年後に1000億円」と弾いていた。日本経済新聞を「紙の新聞」から「経済に関する世界的な総合情報機関」に変えようとした森田康。NTTを「もしもしの公社」から「データ通信の会社」に変えようとした真藤恒。そしてリクルートを「情報誌の会社」から「情報サービスの会社」に飛躍させようとした江副。「モノづくり」こそ経済の根幹と信じられていた日本で、この3人は次時代に経済を動かすのは「モノ」ではなく「情報」だと気づいていた
 
・「君たちは生まれてから22年間、先人の知恵、歴史を学んできた。でも23歳からは歴史を作るのです。この会社でなら、それができます。一緒に日本を、いや世界を変えましょう
 
・「伊庭野さん、メモなんか取ってると頭が悪くなるよケネディは毎朝、30分で主要な新聞を全部読み中身を覚えていたそうだ。頭は使わないと」
 
リクルート事件がなければ、ネットの時代を牽引するグーグルのようなベンチャー企業は日本から生まれていたかもしれない。
 
・江副が打ち立てた情報誌のビジネス・モデルは。これまで朝日、読売、電通に富をもたらしてきたマスメディアの秩序を「破壊」した。江副は恨まれ、敵を作った。一度もサラリーマンを経験していない江副は、日本敵な資本主義の風土を知らない。知っているのは「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」というピーター・ドラッカーの教えだけだ。江副は「叩かれる起業家」の先駆けだった
 
・「ワシのところもそうやったが、若い会社ろいうのは、たいがい、いかがわしいもんや。でもあの事件があってお客様はリクルートを必要としてくれている。『いかがわしい』と言う奴らには、言わせておいたらええ。君らはそのままえええんや。ええか、おまえら。もっといかがわしくなれ!」(中内功
 
 
「「秘策」を全社員と共有する」「垂れ幕文化」「霞が関ビルと東京ディズニーランド三井不動産の江戸英雄)」「徒歩1分=80メートルのルール」「販売の神様の逆襲(務台光雄と『読売住宅案内』)」「地方・貧乏・野望」「そんなもん、ありませんよ、自分で考えてください」など。
 
いや〜!痛快、痛快、天国と地獄!このなヒトが日本にいたことがスゴイわ。今年読んだ本のベスト3入りだね。超オススメです。(・∀・)