「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「陽水の快楽 井上陽水論」(竹田青嗣)

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70年台前半の音楽界は、吉田拓郎井上陽水の二大アーチストのものだった。 そしてワタシもかなりの影響を受けた。アルバムではじめて聴いたのは、拓郎が「伽草子」、陽水が「GOOD PAGES」。中一の数学の先生からテープにダビングしてもらった。もう本当に擦り切れるように聴いた、聴いた、覚えた。

 

さてこの本。「実存的世界の中で「本当の世界」への希求はどのように変質していくのか。井上陽水の世界に超越論的欲望の変容とその行方を探り、夢よりも深い覚醒”の彼方に、新しい批評のスタイルを切り拓いた。注目の長篇評論」そのエッセンスを紹介しよう。

 
「傘がない」「夢の中へ」などは、わたしにとってはべつに特筆されるほどの意味は持たない。断絶』のオープニングは「あこがれ」だが、この曲こそ陽水の登場にじつにふさわしい響きを持っている。
 
♫ さみしい時は男がわかる
笑顔で隠す男の涙
男は一人旅するもの
荒野をめざし旅するものだ
ラララ……
これが男の姿なら 私もつい あこがれてしまう
 
女は清く優しく生きて
電車にのれば座席をゆずり
悲しい歌が聞こえてきたら
ほろりと涙流してしまう
ラララ……
これが女の姿がら 私もつい あこがれてしまう

 

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「あこがれ」が、いかにも陽水の響きを刻印されてきたものであるのは、ここではロマンの喪失なる定型が「私もついあこがれてしまう」という最後の一句によって、極めて絶妙な形で成就されるという点に、よく示されている。

 
「あこがれてしまう」というフレーズは、こういったイメージが一般に若い男女にとってあこがれの対象であることを、歌い手はすでに知っているということを含意しているのである。私はそういう男にあこがれてしまう」は、つまりこの「男性」像がひとつの幻想にほかならぬことの対象化である。そしてそれが対象化(=距離をとって見ること)であるからこそあこがれ」は、自分はもはやその幻想の内側で生きていることはできない、というディストリビューションの定型をあやうく結んでいるわけだ
 
・陽水がサングラスをかける理由。「たとえば、いかがわしい場所で人間の道を極めるため」
 
・「ぼくはたくさん売りたいとは思うけれども、売れないものが良くないのかというと、そうでもない。だけど、売れるということ以外に音楽を計るものさしを見つけられない

 

ワタシも「あこがれ」からスタートする『断絶』の世界がサイコーに大好き。陽水ファン、必読っ!オススメです。(・∀・)

 

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