昨日に引き続き、本橋信宏さんの本。いっぱい共感するんだよねー。やっぱり同じ昭和30年代生まれなのだからだろうか。(・∀・)
「東大安田講堂、武道館、東京タワー、六本木キャンティ、3億円事件---。昭和という時代を現す東京の街並みや時代の変化を、当時と今の写真を織り込んで比較した歴史の現場案内。昭和の痕跡が、東京から消えて久しいといわれる。しかし、決してそうではなかった。変化した部分もあるが、当時と今を凝視しながら見比べると、案外、街の匂いやざわめき、熱気などが似ていることに気づく。当たり前の風景だからこそ、しっかり視る、凝視しなければならない。まだまだ東京には昭和が生き続けていたのだ。そんな郷愁の昭和が残る街を、東京を愛する作家・本橋信宏が歩いた」中でも、あの名曲の誕生秘話がスゴい!紹介しましょう。
・名曲「神田川」にまつわる隠されたエピソードを探る。
文化放送で放送作家をしていた喜多條忠。スタッフルームで台本を書いていると背後からのぞきこむ青年がいる。デビューしたての南こうせつだった。明治学院に入り、クラウンレコードのオーディションに受かり、デビューしたが、第一期かぐや姫を結成してもヒット曲に恵まれず、顔を売りに局回りをしていいるところだった。
「いやあ、すごいスピードで書きますね。あれぐらい書けるんだったら歌の詞も書けるでしょう」「自由詩なら書いてるよ。でも歌の詞はやったことないなあ」「いや、書けますよ。とにかく何でもいいから書いてください。どんな長い詞でも僕は作曲して歌う自信がありますから」
ある日、文化放送を訪れたこうせつから、新作LPに入れる曲の作詞を喜多條忠に依頼してきた。「締め切り、今日まで?そりゃ無理だよ」「じゃ、書けたら次のLPにいれましょうか」
徹夜明けでもうろうとした喜多條忠は、タクシーに転がり込み、自宅のある東中野に帰っていく。早稲田通りの小滝橋を右に曲がりかけると、ふと川にかかる標語が目に留まった。「川をきれいにしましょう 神田川」
ああ。そういえば、みち子と暮らしていた部屋の下に流れていたのは神田川というんだったな。あのころ、おれは名前のないどぶ川だとばかり思っていたっけ。机の前に座った喜多條忠は、白紙のノートにさっき目に留まった言葉を書いてみた。
「神田川」
なにか書けそうな気がする。3年前、みち子と同棲していた部屋の光景が浮かんできた。女の一人称で書きはじめたが、あくまでも心象は喜多條忠のものだった。歌詞の最後「若かったあの頃 何もこわくなかった」と書き上げるまでわずか15分しかかからなかった。よし。できた。だが、もうひとつ、何かが言い切れていないように思えた。ーほんとうにおれはあのころ、何もこわくなかったのだろうか。
そうだ。おれには恐いものがあった。日本の自由詩の歴史上もっとも有名で、悲しく、せつない詩句が、このとき誕生した。
ーただあなたのやさしさが こわかった
南こうせつの自宅に電話をした。「あの、書けたんだ」「速いですねえ。ちょっとまってください。ボールペンもってきますから。はい。どうぞ」まだFAXがなかった時代、口伝えで歌詞が伝えられていく。5分後。「喜多條さん。できましたよ。聴いてください」「で、できたって!?」「さっき、詞をメモしてるときにもうメロディが浮かんできたんですよ」南こうせつはギターを弾きながら歌いだした。
名曲中の名曲が、この瞬間誕生した。だが、このときまだふたりは軌跡が起きたことを知らなかった。
こうせつ「メロディが入っていたんですね、その言葉に。それを引き出しただけの話なんじゃないかな。詞が先にある場合は言霊といいますか、言葉の中にメロディがあるんです」
その他、「東京オリンピックの残照」「吉展ちゃん誘拐事件のあの日をふりかえって」「忘れ去られた東京の記憶」「東京タワーが砕け散った夜(東京タワーは「昭和塔」「日本塔」「平和塔」だった!?)」「1963年夏、大久保の赤塚不二夫のアパートを追って…」「サンデー、マガジン、明星の載っていた怪しげな広告を追って」など。
↑ ああ、このアヤシイ広告、懐かしいなあ……。いいよねえ60年代って。懐かしいなあ。オススメです。(・∀・)