「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「巨人軍に葬られた男たち」(織田淳太郎)

  


巨人軍に葬られた男たち (新潮文庫)


ジャイアンツファン歴40年以上の私でも、巨人軍最大のタブー「湯口事件」は知らなかった。ふとしたことで名前を調べているうちにこの本に出会いました。伝説の九連覇の栄光の陰に隠れた事件とは?そのエッセンスを紹介しよう。


『湯口事件』は、巨人にとっての最大のタブーだった。「臭いものに蓋をして、紳士を演じきる」。これがV9時代に活躍した巨人軍OBのK氏を通じて私の感じた巨人軍の体質といっても過言ではない。


・巨人はその年、V6を達成し、球界の盟主の座を不動のものとしていた。ONに堀内恒夫高田繁柴田勲土井正三といった個性的な選手、監督として中央に君臨するのは『神様』の川上哲治である。前年度に400勝の左腕投手・金田正一が引退、左腕投手では6年目の高橋一三がエース格にのし上がっていたが、やはり金田の抜けた穴は大きかった。欲しいのは即戦力だった。


湯口敏彦はあまりにも無口だった。その寡黙な少年が、翌年の甲子園で旋風を巻き起こした。結果、日本一の球団の一位指名を受けたが、「湯口は大丈夫だろうか…」という懸念があった。



・中村稔二軍投手コーチは敏彦の投球に釘付けになった。「これほどのスピードボールを投げられるんだ。コントロールさえ身に付けば、こいつは毎年20勝近くマークできる投手に成長するはずだが」その真摯な姿を才能を加味する限り、彼は巨人軍史上最高の左腕投手になるはずの逸材だった


・二年目に入ってからの敏彦は、少なくとも一年目の敏彦とは違っていた。気がついたとき、彼はすでに快活さを失っていた。心を許す同僚ともあまり話をしなくなった。表情に覇気がなくなり、喜怒哀楽をほとんど外に出さなくなった。外食もしなくなり、中尾の個人的な指導を受け、座禅を組まされる以外、多くの時間を部屋に閉じ込もったまま過ごしている。


・ファン感謝デーでのめった打ちに乱打され、川上の叱責を食らった。「お前は二年間もムダメシを食っていたのか!」決定的な言葉だった。彼は何度も同じ言葉を呟いた。「川上監督に申し訳ないことをしてしまった。川上監督に……」それは、あたかも呪文のようだった。


・空港ロビーに姿を現したとき、小康状態を保っていた精神が、また錯乱した。敏彦が突然、奇声を上げて、暴れだした。奇声はロビーに響き渡り、彼は駆けつけた空港警備隊に取り押さえられた。哀れな光景だった。巨人軍の一員としての矜持は、そこにはなかった。あるのは、妄想の拡大した非現実的な世界で、もがき苦しむ一人の若者の悲痛な姿だけだった。


・「父ちゃん、俺……やっぱり重かったよ。巨人と19番が……」


・敏彦の突然死を川上は「巨人こそ大被害を被った」と断じ、女を乗せての事故死でなかったことを「せめてもの救い」と論じている。だが、二十歳の若者の急逝に救いなどあるのだろうか。


・親族の誰かが絶叫した。「誰が殺したんだ!」また誰かが泣き叫んだ。「敏彦は巨人軍に殺されたんだ!」


・ある若い選手は報道陣の一人に吐き捨てた。「湯口だけではないんです。一昨年もノイローゼで退団した選手がいました。巨人というチームは、相当力があるか、運がいいか、強い性格の奴じゃないと苦しい。なにせ、フォームの狂いを1センチ刻みで指摘されるような毎日なんですから」


栄華の時代は、いつの世も個々の『負の格闘』の上に成立している。『負の格闘』こそが、すべての栄光への隠された揚力だった。そうしてー。湯口敏彦の急逝で始まり、ドラフト上位指名3名の入団拒否で締めくくった昭和48年。この年。読売巨人軍は不滅の九連覇を達成し、光輝に彩られた時代の幕をひとまず降ろした。


特に、「長嶋のライバルだった男」「投手という消耗品たち」「エースのジョー・城之内邦雄」「森に蹴落とされた男」


…知らなかったなあ……。でもこれは氷山の一角なのかも。野球ファンにはオススメです。


  


巨人軍に葬られた男たち (新潮文庫)