「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「吉原はこんな所でございましたー廓の女たちの昭和史」(福田利子)

  


吉原はこんな所でございました 廓の女たちの昭和史 (ちくま文庫)


この本は稀有の本だ。300年の歴史が、日本の文化が消えた。それが遊郭。三歳で吉原「松葉屋」の養女になった少女の半生を通して語られる、「吉原」の移り変わりの記録徳川時代、官許の遊郭として発祥した吉原は第二次大戦中、女たちが軍に徴発され、戦後は占領軍対策にあてられ、売春防止法によって、終焉を迎えた。家の貧困を身一つにひき受けて吉原に来た娘たち、廓で働く人びとの姿、廓の華やぎや情緒を、暖かい眼差しで写しとる。そのエッセンスを紹介しよう。


昭和33年2月28日、三百年にわたって不夜城とうたわれてきた吉原が“売春防止法”という法律によって、完全に幕を閉じることになりました。江戸時代に、京都の島原、大坂の新町とともに幕府公認の遊郭としてつくられましてから昭和にいたるまでの間、男の方の遊興の地、夢の里として栄えてきた土地でございます。江戸のころは庶民はもとより、大名、豪商などが通ってくる遊郭でしたから、花魁(おいらん)たちにも行儀作法がきびしく仕込まれ、教養や、美しさ、華やかさは歌にも歌われ、芝居になるなどして今も残っていますが、この花魁のいたのが、この吉原の地だったわけでございます。




三万坪の土地に常に3000人の遊女がいて、不夜城といわれる別世界を作っていました。葭(よし)や葦(あし)の繁る一面の湿地帯ですので、“葭原”とよび、縁起をかついで“葭”を“吉”に替え、吉原としたのが始まりだといわれています。


最後の夜は、まことにあっけないものでした。最後まで残った160軒の店が、いつもより少ないお客様を送ったあと、11時には赤線最後の灯を、ひっそりと消したのでございます。人が大勢押しかけるでもなく、花魁たちが最後を飾るでもなく、ただ戸を閉め、灯りを消して、それで終わりでした。夜通し明るかった吉原の街がどこもかしこも真っ暗。一体ここはどこだろう。この変わり果てた街がこれからどうなって行くのかこから先をどうしていくのか


吉原が繁盛していたころは、金持ちと貧乏人、地主と小作人、高官と下級官吏、使う人と使われる人、というふうに、見た目にもはっきりと、階級というのでしょうか、差別がございました。そして男と女もまた、その立場に差があったように思うのでございます。男の人は仕事もし、遊びもし、廓へ行き、女のほうは、結婚前に普通の娘が男の人がつきあうなんてことは考えられない時代だったのです。男の人は社会的に力をもっていましたから、家庭は家庭としてこれを大切にし、プロの女性を相手にお金で買える恋愛をしていました。日常生活と切り離した場所で、限られた時間だけの楽しみにをし、それだけに、この節のようなもめごとにもならなかったのではないでしょうか。


娘たちは、親のために借金を背負ってきながら、故郷の親兄弟のことを折りにつけ心にかけるような親孝行者でした。昭和初期の親孝行という言葉のもつあたたかさや、その反面の、暗さや哀れさのぴょうな雰囲気は、日本中、もう、どこを探してもないのではないでしょうか。役場の掲示板に「娘身売りの場合は当相談所へおいで下さい」という貼紙がありました。




娼妓とはいっても吉原は国の管理と保護が行き届いていますので、吉原なら、というので娘さんを手放した親もいたという風に聞いております。そのころ、山形県下で、2000人あまりの娘さんが娼妓になり年ごとの娘さんが村から消えるという、今ではとても考えられないようなことが実際に起こったんですよ。


そのころの貸座敷にはとてもきびしいところがありまして、花魁の稼ぎは毎日きちんと記載されるだけでなく、月一回集計され、組合の立会のもとで、花魁一人一人に、この月はこれだけ働いたから、借金の残りは、あといくらある、というふうに報告していたんです。



「吉原の幇間芸」も、今となっては見られないよね。吉原のイメージが変わるなあ。超オススメです。(・∀・)


  


吉原はこんな所でございました 廓の女たちの昭和史 (ちくま文庫)