「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『逆説の日本史3 古代言霊編 平安遷都と万葉集の謎』

逆説の日本史3 古代言霊編(小学館文庫): 平安建都と万葉集の謎

逆説の日本史3 古代言霊編(小学館文庫): 平安建都と万葉集の謎

今、ハマっているのが、井沢元彦氏の著作、「逆説シリーズ」。まさに目からウロコ!分厚い本だけど一気に読ませる筆力はさすが!(・∀・)


BOOK〜『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20130228

BOOK〜『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20130315


さあ、第三弾、いよいよ、松本伊代、伊代平安時代。実に面白い。そのエッセンスを紹介しよう。


藤原氏は、天皇家そして日本国にとりついた「寄生虫」である。それは的確であり、日本史の一つの重大な原理であり、日本史を理解するキーポイントでもあるのだ。藤原氏の原理とは「決して天皇(日本の王)にならず、あくまで天皇家に対する寄生虫の立場を守る」ということになる。藤原氏のシンボルは「藤の花」である。藤原氏氏神(守護神)である奈良の春日大社の神紋も「下がり藤」だ。藤は他物にからんで成長するのが、藤なのである。つまり、「からみつくための他物」が無いと藤は生きられないのだ。あくまで「他物」を「主」として、自らは「従」となる。これが藤原氏の行動原理である。


一見無節操な日本人の宗教に対する態度にも、実は、「見えざる原則」がある。それは「怨霊信仰」であり「言霊」であり「ケガレ」の思想だ。一言で言えば神道である。ケガレたことは「水に流し」て「もっと大事ななすべきこと」をやるべきだと考える。「ケガレ」は単なる「汚れ」だけでなく、過去の過ちや恨みもそれに含まれてる。それが日本人の伝統的な考え方だ。そういう「過ち」に「タッチしてはいけない」と言い、「水に流し」てしまえば、本当の歴史などわかるはずがない。「水に流す」ということは過去の蓄積を全部消してしまうことだからだ。


「日本人(和人)の信仰は仏教ではなく「怨霊信仰」である。人が怨霊になる条件とは何か。一つは「無念の死」を遂げること。そしてもう一つは、「その人物が偉大で高貴な人間である」ことだ。聖徳太子長屋王、あるいは早良皇太子(崇道天皇)や菅原道真(天神)、崇徳天皇などを見れば一目瞭然だろう。そしてもう一つ重大な条件は日本民族(和人)であることなのだ。


万葉集」は存在すること自体「奇跡」とも言える重要な文化遺産である。なぜか?なぜこんな膨大な歌集が編まれたのか?


恋人の名を言うことは「忌むべき」こと。つまり禁忌(タブー)なのだ。現代人の感覚からすればこれは理解し難いかもしれない。だが、古代人には古代人の考え方がある。ごく簡単に言ってしまえば、「名」とはその人の人格そのものであるということだ。単なる「言葉」ではなくて、本人そのものなのだ。だから「名前を知っている」ということは、相手の身も心も自分のものにした、ということであり、「名を教えろ」とは「自分のものになれ」ということなのである。異性に「名を聞く」ことはすなわち求婚を意味し、他の意味はない。こういう考え方を「言霊」という。


・もう少し具体的に言うと、「言葉」の内容に呼応して「現実」も動く、ということである。たとえば、人が「雨が降る」と言えば、その言葉に呼応して実際に雨が降ってくるということだ。つまり言ったこと(意見)と起こったこと(現実)に因果関係を認めること、これはとりも直さずコトダマを信じているということだ。一番重要なことは、この世界では冒頭でも述べたように真のそれも言論の自由はない、ということなのである。なぜそうなるかというと、コトダマの世界では「言えば実現する」のだから。


その他、「称徳女帝編は本当に天皇家を愛人・弓削道鏡に譲り渡そうとしたのか?」「なぜ称徳女帝は生涯独身であることを強制されたのか?」「日本三大悪人、平将門足利尊氏弓削道鏡は本当に大悪人なのか?」「皇帝になろうとした藤原仲麻呂の野望とは?」「三世一身の法と墾田永年私財法とは?」「『殺人』が平安以降激減したのはなぜか?」「なぜ桓武天皇は、平城京を捨てて平安京に遷都したのか?」など。


はあ〜、我々日本人の基本的な価値観はまさに、コトダマだったんだよねえ…深いところでナットク。ヤバい…この本のシリーズ、オモシロ過ぎる!超オススメです。(・∀・)