- 作者: 植村鞆音
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2008/06/10
- メディア: 文庫
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莫大な借金に追われながら、七百篇におよぶ小説・雑文を書き、昭和の文壇に異彩を放ち、わずか四十三歳の人生を悠然と駆け抜けた人気作家の全貌をあますところなく描いた評伝決定版。そのエッセンスを紹介しよう。
・同窓生の青木季吉の直木評。「直木という人は、性格的に非常に変わった人であった。彼との永い交友で、私が常に感じていたことは、彼の中に非常に多くの要素があり、一個の人間としては破綻だらけであるにも拘わらず、芸術的にはそれは渾然と融和されていたことである。その点こそ、彼の人間を知り彼の芸術を理解するうえでの重大な鍵をなすもものではないだろうか」
「彼の内部には、文化人と野蛮人、詩人と政治家、坊主と科学者、現実家と空想家、努力家と遊蕩人、貴族と市民、貧乏人と金持、道徳家と不道徳家―等々が同居している」
・直木(本名:植木宗一)の弟の植木誠二。「兄は人々よりは何倍か鍛えの好い胸当と、鎖帷子を着用していた。この物具を着けた時打ち込む太刀は弾き返され、射放つ征矢は横に外れた。(中略)だがその亡骸を改めて見て、その鎧の下にどれだけ傷つきやすい神経があり、その胸当の下に、どれだけ柔らかい心臓があるか。そしてその猿頬を脱がせて見て、兄の面ざしはどれほど蒼ざめていて憂鬱であるか。人々は誰もしらない」
・宗一(直木三十五)には、ヤマ気があった。安月給や安原稿料でこつこつで生きて行こうとなどという気はまるでない。とくに宗一は、そもそも作家になるよりも出版社、美術商、芸術家の倶楽部、はては鉱山会社、材木会社など、事業を起こしてひと山当てようといつも考えていた。そして、こうした彼の事業欲は生涯続く。
・宗一(直木三十五)には、借金について哲学があった。ひとつは高利貸からしか金を借りないこと。もうひとつは、借金とりから逃げないことである。長い間の貧乏暮らしに鍛えられ、金がないことを苦しいと感じたことは少ない。貧乏もいいものである。人間は貧乏だからといって、かならずしも不幸とは限らない。金がないと、身軽だし、なにくそという反抗心が湧いてくる。入ってきたお金は使い切る。貧乏が嫌なら勉強してもっといいものが書けるように努力すればいい。
・大正十年暮れ。宗一はペンネームを直木三十一とした。植村の、植を、二分して、直木、この時、三十一歳なりし故、直木三十一と称す。しかしペンネームの年齢数を実年齢とともに成長させるというのがなんともユニークである。直木三十二、三十三、その後三十四を飛ばして大正十五年(昭和元年)に直木三十五に固定し、以後成長させることを止めた。(三十四は“惨死”に通じるので使わないことに決めていた)
・家賃。結果払わないことが多いのだが、直木はそもそも払うつもりでいる。ところが、茶屋の請求、愛人の生活費、家族の生活費を支払っていくと、家賃までは手が回らなくなって、心ならずも溜めてしまう。
・菊池寛。「直木は一口に大衆小説化といわれているが、『南国太平記』は、単なる大衆小説ではない、これは立派な歴史小説である。彼出でて初めて日本に歴史小説が存在したといってもいい」
・宇野浩二の代表作「南国太平記」評。「この作家は驚くべき辣腕を持っている。立体描写の優れた腕。読者に息もつかせず読ませる手法。「阿吽」の呼吸を心得ている文章。構想の巧みさ。場面の変化の巧みさ。直木の人間の面白さが違った形で作品に出てゐる。所謂大衆文学のなかで所謂純文学と肩を並べ得るのは直木の作だけであらうか。彼の無口が文章では気魄となって表れてゐる」
・驚嘆するのはその膨大な執筆量である。質よりはむしろ量とスピードを誇ってきた直木の真骨頂である。編集の仕事をやりながら。映画を製作しながら妻と愛人との二重生活を維持しながら、芸者を追いかけながら、囲碁・将棋・競馬を楽しみながら。短期間によくここまで書いたものである。
では、その直木の作品が、何故、今、読まれないのか?古臭い?いいや、とんでもない、読むに値しない?それは、直木の作品が読者にとって敷居が高くなってしまった。換言すれば。読者の側に直木の作品を理解する教養が欠落してしまったのだ。
ある種の天才だね。直木は。まずは、「南国太平記」、「黄門廻国記」を読まねば!傑作です。超おススメ!(^^♪