サービスの達人たち―ヘップバーンを虜にした靴磨きからロールスロイスのセールスマンまで (新潮OH!文庫)
- 作者: 野地秩嘉
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2001/10
- メディア: 文庫
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電報が通信コミュニケーションの柱だった昭和30年代の話。昭和38年では9,500万通、平成6年は4,300万通と電報の量は半減している。(^_^;) 今の電報は慶弔電報であり、決められた日時に届けるものになっているが、当時は…。
「あの頃は違うよ。一日に百も二百も電報を持って自転車で走り回ったんだから。雪の日なんて駆け足で配達したこともあったよ。私らは先輩たちにとにかく早く届けろってそればっかりいわれたもんだ」
昭和30年、ラーメン一杯の値段が30円。電報料金は十字以内なら20円(市外は30円)、電話の普及率が百人あたり二台だからコミュニケーションの根幹を担っていた。
「何時に上野駅につくから迎えにきてくれ、とか今日、柿を送ったから駅に取りに行ってくれとか、今なら電話で話しているようなことだよ。」
昭和30年代は自動車の往来はそれほどでもなく、自転車にのって道の真ん中を全速力で疾走した。『Always 三丁目の夕日』の時代だね〜!(^^♪
「郵便配達との最大の違いは電報は速く走らなきゃならないってことだ。少しでも速く走るためにみんな自費で自転車のギアを付け換えて、レース仕様にして出かけたもんですよ」
その鍛えた脚力を路上レースで試すだけでなく、年に一回、後楽園の競輪場や船橋のサーキットを借り切って、電報配達員たちだけのレースを開いていたのだとか。へえ〜!!!(^◇^)
当時の配達員たちは待ちの人々に実に丁重な対応を受けた。人々は緊急の知らせを運んでくる彼らに信頼感を寄せ、心から敬意を払っていたという。「でんぽうでーす!」と真夜中に寝ている人をたたき起こしても文句を言われたことはなかったという。…そんな時代があったんだね…。知らなかった…。
では電報の知らせるという役割は終えてしまったのか?いやそうではない。
阪神・淡路大震災の時、電報配達員たちが被災地へ駆けつけ自らの危険も顧みず、瓦礫を乗り越えて電報を届けていた。その事実はまったく報道されていない。「被災の時はなんつったって電報ですよ。確実ですから」
…知らなかった…。私たちの生活ってこういう縁の下の力持ちの人たちのおかげで進歩してきたんだね。感謝!m(__)m