「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「天才の思考 高畑勲と宮崎駿」(鈴木敏夫)

ワタシは、映画もアニメも観ないので、スタジオジブリがどれほどすごいのか、が分からなかった。作品も3つくらいしか観ていないし。そもそもジブリの語源、イタリアの軍用機「ギブリ」から来ているんだって。読み間違えらしい。(笑)
 
『風の谷のナウシカ』から『となりの山田くん』、『風立ちぬ』まで。二人の天才を最も間近で支え続けたプロデューサーがついに語ったジブリ19作品の内幕。誰よりも互いを認め合った二人の生々しい激闘、強烈過ぎる個性、創作の秘密が惜しみなく明かされる。最初で最後 高畑、宮崎、鈴木の特別鼎談収録」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・宮さん(宮崎駿監督)のほうは『ルパン三世 カリオストロの城』を制作中でした。あとで宮崎駿はその時の僕を回想して「うさん臭いやつが来たと思った」と言うんですが、 会った最初に言われたのが「アニメーション・ブームだからといって商売をする『アニメージュ』には好意を持っていない。そんな雑誌で話したら自分が汚れる。あなたとはしゃべりたくない」。
 
・それでまたも頭にきて、腰掛け持ってきて横に座ったんです。それでもしゃべってくれなくて、一心不乱で描き続けている。昼夜の飯も持参した弁当で五分ですませる。夜中を過ぎても一言もしゃべらず、午前三時ぐらいですかね。いきなり「帰ります。明日は九時です」と言われたのがはじめてのコミュニケーション。しょうがないから翌朝また行きましたよ。口を利いてくれたのは三日目でした。
 
・気がついたら、毎日、二人に会いに行くようになっていました。二人を見て、これほどまでに働くのか、今や『作家”はこんなところにいるのかと思ったんです。そのころ、僕の持つ作家のイメージを体現する人はもう吉行淳之介さんぐらいしかいなくて、想像していたとおりのストイックな作家性を持つ人間が、高畑・宮崎だったんです。
 
・あのころ、宮崎駿は「アニメーションやめて漫画家になろうかな」と言いながら、映画を作れないかとも模索していました。当時、徳間書店では、社長の徳間康快が業界に先駆けて映像・音楽・活字のメディアミックスを提唱していました。「企画があるやつは、映画企画委員会に持ってこい」と言っているのを耳にとめていた僕は、宮さんに相談して、「ハヤオ戦記」と「戦国魔城」という二つの企画を持ち込むんです。
 
ところが、委員の一人だった大映(当時は徳間書店の子会社)のYさんというプロデューサーに「君、映画ってそんな簡単なものじゃないよ。原作のないものを映画にできるか」と言われて、素人のこちらは黙るしかなかった。宮さんにそのことを話すと、カチンときたんでしょうね。「じゃあ、原作描いちゃいましょう。ただし映画化を目的に漫画を描くのは不純だから、漫画にしか描けないものを描きたい」と。正論ですよね。
 
当時、宮崎駿は「二馬力」という会社を作っていて、阿佐ヶ谷に事務所があったんです。 しばらくして呼ばれてそこに行くと、三種類のナウシカの絵があった。一つは描き込まれた今の絵で、一つはシンプルな松本零士タイプ、もう一つはその中間。「松本零士タイプなら一日二、三十枚描ける。中間タイプは五、六枚。こっちは一日一枚いくかどうか。「鈴木さん、好きなやつ選んで」と言われて、これがポイントだったんですね。僕は「アニメーション雑誌でやるんだから普通の漫画やってもしょうがない。一番大変なやつをやりましょう」と言ったんです。宮さんは「大変だよ、これ」と言いながら、多少絵が描ける僕にも「手伝え」と言って描き始めるんです。僕もスクリーントーンはったり、ベタを塗ったりしましたよ。それが、『アニメージュ』で連載を始めた『風の谷のナウシカ』です。
 
・通常漫画の単行本は200ページぐらいなのに、僕はまだ120ページしかない連載十回目に、もう単行本にしたくなりました。早く映画が作りたくなったんですね。『ドラえもん』の映画が上映された時、藤子不二雄さんが百何ページかのB5判の原作本を出していたので、この形ならいける、ページを薄くすれば売れるだろうと読んで、いきなり七万部を出したんです。ところが五万しか売れなくて、大失敗です。
 
・宮さんのところに行って「なんで(プロデューサーは)高畑さんじゃなきゃダメなんですか。宮崎駿が僕を「鈴木さんは飲めないけど、飲みに行こう」と誘うんです。阿佐ヶ谷の小さな居酒屋で、あのおしゃべりな宮さんがビールや日本酒を黙々と飲んで、突然泣き出して言うんです。「俺は十五年間、高畑勲に青春を捧げた。何も返してもらっていない」。
 
その姿を見ると、高畑さんを説得するしかないじゃないですか。それでも高畑さんは 「僕はやりたくない」を繰り返すので、ついに僕は生涯でただ一度だけ、高畑さんに向かってものすごいデカい声で「宮さんは高畑さんの大事な友人でしょう。その友人が困っている時になぜ助けないのか!」と言ったんです。あんまり人に怒鳴られたことはないんでしょう。これが功を奏して「わかりました」とやってくれることになったんです。
 
・それから高畑さんと二人で宮さんがいた会社を回ったんですが、どこもナウシカの制作を引き受けてくれない。日本アニメーション、東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)、東映動画(現・東映アニメーション)、全部ダメでしたね。とにかくみなさん、 口を揃えて同じことを言いました。
 
「宮崎さんが作るならいいものが作れるだろう。それはわかっている。でも、スタッフも会社もガタガタになるんだよ。今までがそうだった」。 完璧主義者と仕事をやると会社がダメージを受けるということですね。その当事者である高畑さんを連れて行ったのが、よくなかった(笑)。
 
高畑さん「宮さんはたった一人でパラシュート降下をするんだ。味方を作るところからはじめなければいけない」
 
宮崎駿は、スタッフを集めた最初の演説で非常事態宣言を出します。「六カ月で作らなきゃいけないから、まったく余裕はない。土日休みなし。一月一日だけ休もう」。そう宣言して、それを実行に移すんです。実際には八カ月かかりました。
 
僕が宮崎駿に感心したのは、ほんとうによくしゃべる宮さんが作画に入った途端、無駄口を一切きかなくなったことでした。朝の九時から、夜中の三時四時までデスクに向かい、飯も持ってきた弁当を箸で二つに分けて、朝と夜五分ずつで食べる。それ以外はずーっと仕事なんです。音楽も一切聴かない。その姿を見せつけることによってみんなを引っ張っていく。自分にも厳しかったけれど、他人にも厳しかった。すごかったですね。
 
現場はほんとうに過酷な状況でした。どんなに大変だったか。途中で庵野秀明が参加するわけです。彼は学生時代に自分が描いた絵を持ってトップクラフトにやってきたんですが、それを見て宮崎駿はすぐに採用するんです。アニメーションの世界では、普通動画をやってから原画を描くという段階を踏むのが一般的なんですが、宮さんは庵野秀明にいきなり原画を描かせた。それで巨神兵のシーンは全部彼に任せてしまうんです。庵野は鞄一つで東京に出てきたので、泊まるところはない。だからスタジオでずっと過ごすんですね。 机の下で寝ていました。
 
とにかく、僕らはこの一本に賭けていました。ただ作ることに精一杯で、宣伝も興行も、 あとのことも考える余裕はなかった。そうして作った『風の谷のナウシカ』は運よくヒットしましたが、その成功の裏ではいろんなことがありました。映画完成とともに主力になったトップクラスのスタッフがいっせいに辞表を出したため、トップクラフトが名前だけの会社になってしまったんです。一本の映画でそんなことが起きるのか。僕は愕然としました。それでも原さんという人は、数百万円の制作余剰金をわざわざ返そうと申し出るんです。ほんとうに誠実な人でした。ナウシカを完成させた宮崎駿が、「監督は二度とやりたくない」と言ったのは、そうした現実の中で友達を失っていくのが辛すぎたからです。 みんな、あの時は、これっきりにしようという気分だったんです。しかし、ぎりぎりのところで生まれたナウシカがすべての出発になりました。
 
……すごいなあ……このトーンとテンションが、全作品の解説に書かれているのだが、壮絶っ!!!クリエイターの、アニメーターの、超一流のシゴトぶりが伝わってくる。
 
そして鈴木敏夫さんというプロデューサーがいなければ高畑勲。宮崎駿はいなかったように、どんな優秀な人でも世に出ることはできないのだ、ということを知った。アニメファンに関わらず、引き込まれます。超オススメです。(=^・^=)