「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

誰も知らなかった吉田拓郎(山本コウタロー)

拓郎関連の本は、全部読んだと思ったら、この本が抜けていた!古典的な名著!山本コウタローが一橋大学の卒論「吉田拓郎論」に書いたのがこの本。「誰も知らなかったよしだ拓郎」と、なんで「よしだ」がひらがななんだろう!?(笑)
 
「吉田拓郎の出現は衝撃だった。「イメージの歌」で登場、「結婚しようよ」「旅の宿から」「人間なんて」と70年代、多くの若者が拓郎の歌に熱狂し、ギターは爆発的に売れ、フォークがメジャーになった。拓郎はどのように時代を創ってきたのか。生い立ち、歌、恋愛、成功と挫折、いきざま…、拓郎とその仲間たちの青春の日々を、「岬めぐり」のヒットを持ち、盟友でもある山本コウタローが一年以上にわたる綿密な取材をもとに書き下ろした名著が35年のときを経て初文庫化」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・きれいな先生 もういない それでも待ってる 夏休み
 
拓郎が自作の歌の中で今もいちばん好きだと言っている「夏休み」は、ぼくなりの考えで作った≪童謡≫だと言っているが、この詩の中にてくる『姉さん先生”とはもう言うまでもないであろう・・・宮崎先生のことである。 傑作「夏休み」は、拓郎自身の幼き日へのノスタルジーと、宮崎先生への恋心にも似た憧憬が生んだ、といっても過言ではないようである。
 
・小学1、2年の2年間在籍したこの谷山小学校の同級生に、後に拓郎のレコーディング・ディレクターとなる前田仁氏(CBSソニー)がいたことも、また奇縁といえば奇縁である。そしてもうひとり、隣りのクラスに歌手の西郷輝彦がいた。
 
・なんと拓郎は「お風呂に入るのは姉さんと一緒じゃなきゃいやだ」と、中学2年まで毎晩姉と一緒にお風呂入りの儀式(?)を行なっていたのである。とはいえ、家にいて一日中お風呂に入っていたわけではもちろんない。実はこの頃から自分の部屋に引きこもって、ラジオのポピュラー音楽番組を聞いていることが多くなったのである。いつ、何がきっかけでラジオの音楽番組に熱中しだしたのかは、拓郎自身、今思い出そうとしてもわからないと言う。きっとラジオから流れてくるポップスの何かが、拓郎の中で眠っていた音楽感覚の周波数に同調して、拓郎を音楽の魅力の泥沼へとひきずり込んでいったのだろう。
 
・拍環が最初に買い求めたレコードは当然シングル盤。田代みどりが歌う「パイナップル・プリンセス」であった。金三百円也・・・。NHKの「お笑い三人組」という番組にゲスト出演していた田代みどりを見て、彼はひと目惚れしたのであった。
 
・拓郎は今でも酔うと「ハウンド・ドッグ」や「ロング・トール・サリー」などのオールド・ロックンロール、あるいは「ダイアナ」「悲しき街角」などをよく歌う。それは拓郎にとってのナツメロであり、同時にそれが拓郎の言葉と曲になって出てくる時は、日本の新しいポップスとなるのである。 
 
・「いえね。好きなことは積極的にやらせようと思いましてね。でも、確か最初は1万5千円のギターだったかしら・・・。それが次は2万円、その次は2万5千円と次々と高いものをねだられましてねえ~。もう大変だったというか、往生しましたよ」と母を嘆息させて、買ってもらったギターを拓郎がどう扱ったか? おもしろい話がある 。
 
「ウクレレに飽きて、ギターを買ってもらったんだけど、ギターとウクレレだと勝手が違うんだよな。それでめんどうくさくなってね、いや、実際シラける話だけど、ギターの5弦と6弦をとっぱらっちまったんだよ。そして、下4弦をウクレレ式の押え方で弾いていたってわけさ。つまり、ウクレレのCはギターのGにあたっているってこと・・・。ウッヘェッヘェ・・・」 
 
・ギターを練習する場所は、もっぱら自分が部長をしている写真部の部室であった。その他、神庭や藤井とのダベリング、体育の時間の着替え、昼食と、この部室は拓郎のいわば学校での根拠地になっていた。そして、この部屋で新しいトーン・ダイヤモンズも生まれたのである。メンバーは吉田拓郎、藤井一彦、神庭弘年の3人に、新たに宮崎憲荘(やはり同級生)を加えた 4人編成であった。拓郎は完全にウクレレを卒業し、ギター奏者としてデビューすることになる。
 
レパートリーは、藤井の好きなハリー・ベラフォンテの曲から「バナナ・ボート」や「マティルダ」 ポールとポーラの歌で大ヒットした「ヘイ・ポーラ」 パット・ブーンの「スピーディ・ゴンザレス」 PPMの「花はどこへ行った」などなどヒット曲中心で、自分たちの実力の範囲内で演奏可能なものは片っぱしから取り上げられた。
 
・間をつないだのが拓郎の漫才調のおしゃべりであった。「拓郎はしゃべりがうまい」との定評は、実はもうその頃からあり、彼はこのトーン・ダイヤモンズでも、すすんで司会役を買って出ていた。そんな拓郎の軽妙なしゃべりがなかったら、ステージを保つことさえできなかった高校生バンドに、さらに衝撃を与える大スターが登場した。
 
・地方高校生のちっぽけなバンドにも、ビートルズの巨大なうねりは津波のように押し寄せてきた。われらがトーン・ダイヤモンズも痛くビートルズに刺激され、音楽的向上を目指そうという意気に燃え立ったのである。それはある日伊豆下田沖に黒船が渡来し、泰平の夢を破られてあわてふためいた江戸幕府、いや、その時代の勤王の志士たちの姿に似ていたかもしれない。 それはともかく、ベースのなかった彼らはさっそくギターでベース・コードを弾き、ドラムをとり入れた。ドラム担当・・・吉田拓郎。もちろん冗談ではない!が、ドラムといってもスネアーとシソバル一つだけであったことも付け加えておこう。
 
・そんな時、神庭が岩国放送(FEN)をエアー・チェックしたテープを持って、拓郎の家に訪れた。そのテープに録音されていたのが、実はボブ・ディランの「風に吹かれて」だったのである。 拓郎にとって、この日がボブ・ディランとの初めての出会いだった。そして、この邂逅こそが自分を運命づける大きな要因になろうとは、まだ拓郎自身知る由もなかっただろう。 
 
「特別に歌がうまいとも、サウンドがカッコいいとも思わなかったけれど、何か今まで聞いてきた音楽とはひと味違うなって思ってね。一瞬ドキッとしたことだけは確かだよ」と、やはり拓郎はその日のことを忘れてはなかった。
 
・「風に吹かれて」はボブ・ディランの作った歌であること。ディランはアメリカ南西部のアラバマの貧しい家に生まれ、幼い頃から幾度となく家出を繰り返し、その旅先で音楽にめぐり逢ったと。ニューヨークのグリニッジ・ビレッジに出て認められ 、「風に吹かれて」の大ヒットで公民権運動のヒーローとなっていることなどなどである。
 
・だがアメリカの進歩的若者のヒーローとなっていたボブ・ディランも、まだ日本では一般的に浸透するまでに至ってなかった。ディラン以上に日本の若者の心を捉えて、広く浸透していったのは、ディランの「風に吹かれて」や「レモン・ツリー」「悲惨な戦争 」「わが祖国」など次々とヒットを飛ばしていたビーター・ボール&マリー (PPM)。 ディランの心の友であり「朝日のあたる家」あるいは「ドンナ・ドンナ」などをヒットさせたジョーン・バエズであった。
 
・聞くほどに知るほどに、拓郎のディラン・ショックはその傷口をひろげていく。風に吹かれてどころではない。拓郎の頭の中で吹き荒れていたのは、まるでハリケーンか台風か、彼は枯れ果てたススキのように今にも吹き飛びそうな自分を感じていた。以来拓郎はディランに心酔し、ディランのレコードは拓郎の奴隷であった。レコードの溝はすっかりスリ切れて、峻険な山脈があっという間に平野に変わってしまったかのようであった。拓郎は少しでもディランの投げかける巨大な影にや近づこうと、まるで物怪に憑かれた行者のように、ディランのレコードを聞きまくった。
 
・この本を書くにあたって、ぼくは拓郎に、「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてみてくれ」と質問した。もちろんぼくは、かつての拓郎のディラン狂いを知っていたので、多少の予想はしていたものの、答は予期以上のものであった。
 
「デソレイション・ロウ」「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」「アイ・ウォント・ユー」……拓郎はたいして考える様子もなく、3曲の名を挙げた。どれもボブ・ディランの作品であることは言うまでもない。
 
「好きな曲は?ってきかれたら、俺はどんな時でも即座にディランの作品って答えるだろうね。 理由は別にないんだ。もう恋は盲目っていうか、呪縛された人形のようなもの。そこから離れられないっていうか、もう俺の歌の世界でディランは飛び抜けてしまっていて、好きとか嫌いとかいう対象以上のものなんだよ・・・」
 
 
・外見的な面ひとつをとってみてもこうであったから、音楽的に影響を受けたのは当然のことだ。そのよい例が「島田準子が吉田拓郎に与えた偉大なる影響 」である。本人も歌う前に必ず触れるように、この曲はディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌なのである。
 
・拓郎の好みの女性は、みんなちいちゃくて可愛い感じの、そんなタイプの女の子ばかりだったという。拓郎の妻佳子はその例外であろうが 、お佳が現われるまでのあいだで、一番真剣に好きになったのは、やはり島田準子さんだったという。 
 
 
・審査の結果、拓郎は優勝できなかった。1位は広島大学のファイブ・フェニックス・メイツというグループで、拓郎は2位に終わった。これはぼくの想像だが、当時はまだ歌やコーラスや演奏のうまさが評価の中心で、 高く評価されることのない時代だ。いかに強烈な印象を拓郎が与えていたとしても、1位にすることには、審査員の間でもためらいがあったのではなかろうか・・・。
 
・大勢の人の前でオリジナル曲を歌った。「土地に柵する馬鹿がいる」というタイトルのプロテスト・ソングがそれである。ちなみに、この日2位に入賞したフーツ・エミールには、最近解散した赤い鳥のリーダー、後藤悦次郎(現在は紙風船という新グループを作り活躍中)がいた。
 
 
・「拓郎が持ってきた当時の作品について言えば、もうひとつ強烈な個性がなかったように思います。その後の拓郎みたいな逞しさが感じられなかったなあ。きっと拓郎も多少業界の様子がわかってきて、無意識にせよ周囲を意識しはじめていたのじゃないかな。だからぼくは、周りのことなど気にせず、自分の個性をもっともっと出すようにって言ったはずですよ」
 
・拓郎先生のギター教室をのぞいてみよう。 「お転婆娘だったわたしも、やっぱり一人じゃきまり悪く、友達を7~8人連れていきましてね。確かまだ生徒が2~3人しかいない時だったかな・・・。でも、すぐ満員になっちゃって、定員オーバーって感じでした。拓郎さんは話がうまいでしょう、だから知らず知らずのうちにギターもうまくなっちゃうっていうのかなあ〜、とにかく教え方が抜群でしたから、繁盛するのも当り前って感じでした。ただ途中からギターを習うより、話をしたがる生徒の方が増えてきちゃって、ギター教室というよりへ吉田拓郎ファン・クラブの集いみたいになっちゃいましたよ」
 
・開村会以後、フォーク村では約20回近いコンサートを開いているが、拓郎はどのコンサート も出番は必ず一番最後であった。最後にしないと客が帰ってしまう。ほとんどの客が拓郎を聞きに来ているのだ、と主催者側が信して疑わなかったからである。 拓郎のステージはその話術の巧みさでまず際立っていた。終始彼のペースで進み、満場はいつも笑いの渦と化すかと思えば、声も出せずに聞き惚れているといった具合であった。 レパートリーは社会派的なものからコミック・ソングまで色とりどりであったが、やはり一番受けていたのは恋の歌だった、と伊藤明夫は言う。・
 
 
・「ちょうどその頃のフォークには、商業主義打破というか、アマチュアリズムこそ歌作りの真の精神みたいなムード、なんていうかオリンピック精神に似たものがありましてね。プロになることは歌の魂を金という現代の悪魔に売り渡すことと同じだなんて・・・。みんな学生で若かったし、ぼくらにとってはそういうことがいわば大問題であったわけですよ。みんなで反対のノロシをあげたといったら大ゲサだけど、フォーク村の泉準一なんか、拓郎に泣いて抗議したなんてこともあったはずですよ。でもやっぱり拓郎には、歌もさることながらエンターテイメントの才能が抜群にありましたからね。やれば充分にやれる、とぼくはそう思っていました」
 
・一方拓郎自身はというと、何よりも経済的な不安は大きかったし、口にこそださなかったものの、まだ自信と呼べるものは少しもなかったという。だが、多少思い悩むことはあったにせよ、この乗りかかった船から、今さら降りる気持ちには毛頭なれなかった。やがて昭和45年6月1日、拓郎の初のシングル盤が自分自身を叱咤激励するようにして発売される。それは初期の代表作「イメージの詩」と「マークⅡ」をカップリングしたものであった。拓郎もこのレコードを何とか売りたいと思った。だが、ステージをはじめ、ラジオ、テレビなど、人々に発表したり、知らしめる場をほとんど持っていなかった拓郎にとっては、ラジオのリクエスト番組が唯一の宣伝媒体であった。 聴取者の声は無視できまい。拓郎はそう考えたのである。
 
・「言ってみればカケ出しの頃から拓郎は、スポンサーからこの曲をやってくれと言われても、やりたくないものは絶対にやらなかったですね。ステージの上のことは自分にまかせてくれといって。逆に『野良犬のブルース』という曲は、リズムが単調で客がのらないから、やめてくれないかなどと主催者によく言われたんですが、予定に入っているときは絶対にやりましたね。こういう時だけはぼくは板ばさみの立場になって、ずいぶん困ったりもしましたが、でも立派だと思いましたよ、意志を貫ぬき通す拓郎の態度は・・・」
 
・「当時、ぼくたちにはまるでお金がなくてね。まず人数の多いグループを抱えるような経費的余裕がなかった。だからソロのタレント以外ないということで探していたんです。それも自分で自分を演出できる強烈な個性の持ち主、信じたことに対して真直ぐに進める強さと厳しさを持った男はいないかということでね。そういった意味でも拓郎は理想的なタレントであると思ったんです。それで、拓郎とは何度も何度も話し合い、ぼくは彼にしつこいほど『本気だね。一時の遊びのつもりじゃないだろうね」って念を押したものですよ」拓郎は、そんな浅沼氏のたび重なる確認をむしろ腹だたしげに、いつもムッとして「本気だよ」と答えていたという。
 
・「俺は広島から一人でポツンと出てきたばかりで、まだフォーク界にもほとんど知り合いがいなかったろ。それで、いろんなやつと一緒のコンサートに出ても、それまで東京でやってきた連中に絶対負けたくない、弱味をみせちゃいけないって、いつもムッとした表情で気張っていたわけ。そんな状態の時、小室(等)さんと知り合って話してみたら、何か目上の人とか先輩とかを感じさせない人でね。この人なら俺が言いたいこと言っても受けとめてくれるなって思ったんだよ」
 
・「まず大きい人だなって思いました。体ばかりじゃなく、まだ荒削りで未完成だけど何かやりそうな男という意味でね。何かギラギラと燃えているものを半ば秘め、半ばムキ出しにしているという感じでしたよ。それに拓郎の目には狂的なところがあった。彼の肉体の中に狂気や暴力的なものがきっとあって、それが眼光の中にキラッと出てきていたんだろうね。気違いと天才は紙一重っていうけど…。だから初めて会った時から、こいつはタダ者じゃないって思いましたよ」
 
 
・「拓郎はね、大事なことを突然、言ってみれば死火山が何の前ぶれもなしに突然噴火するように唐突に言い出すクセがあってね。お佳との結婚のことも放送中に、突然しゃべりはじめてびっくりしたんだけど、彼の親父さんが亡くなった時もそうだった。その日ね、拓郎は放送前にキャッスル&ゲイツの「鎮魂歌」というレコードを持ってきて『これをかける」って言うわけ。ヘエッ〜、何でかけるんだろうなって思っていたら、放送中突然、実は親父が死んだんですって話しはじめるじゃない。そして「親父」という歌を作ったんで聞いてくれと言って、その場で歌いはじめたんですよ。あの時は胸にジーンときたなあ~。だけどこういう突発的な場面がよくあったから、その分だけ、放送はいつも熱いものになっていたと思います・・自画自讃になるかな……」
 
・問題はむしろテレビであった。話はとぶが、72年のレコード大賞の内幕が面白い。テレビ関係者の心情がそこに如実にあらわれていたからだ。シングル盤120万枚(2枚計)とLP40万枚(「元気です」のみ)を売りまくった実績からいえば、 拓郎に何らかの賞が与えられても当然であった。評論家や活字関係者の支持はあったものの、テレビ関係者は真向うから反対したというのだ。それもそうかもしれない。
 
「ぼくはテレビ嫌いというわけではない。ただ歌謡番組では一曲しか歌わせてもらえないし、一曲で評価されたくない。せめて15分くらいの時間を与えてくれれば、自分の歌をうたえるのだが・・・」 こうした拓郎の発言は、テレビ関係者にはいちいち癇にさわる言葉だった。15分20分の枠を主張する拓郎は、テレビ関係者からみれば、鼻もちならないほど生意気で、非常識きわまりない男に見えたのであろう。
 
・僕はフォーク・シンガーではない。例えば高田渡をフォーク・シンガーと呼べば、僕はフォーク・シンガーではないし、岡林信康をフォーク・シンガーと呼べば、僕はフォーク・シンガーではない。小室等、加川良、遠藤賢司の誰がフォーク・シンガーであっても、僕はフォーク・シンガーではない。いずれにせよ、僕はフォークというものにこだわりたくないし、フォークという何か意固地になったところがあるような、せせっこましいところにいつまでもいたいとは思っていない。出来ることなら他の音楽をやってみたいー(後略)―と・・・。
 
・「それでお佳は、拓郎のどこに魅力を感じたのですか? 惚れたポイントはどこにあったのでか? 正直に告白しなさい」と...。
 
さすが、西野バレー団のかつての反逆児! お佳はテレもせずに答えてくれたのである。 「そうね。拓郎のウラオモテのない性格や言動、一途に生きているような純粋なところかな。それから、外では何か言いたいことを言ったり、恐しいこと言ってるみたいだったけど、すごく子供っぽいところがあって、私の前ではそれを曝け出すのよね。それがまた私には魅力だったな」
 
・ここで吉田拓郎物語は終わる。だがもちろん、拓郎自身の人生の物語が終わったわけでないことは言うまでもないだろう。拓郎はいま28歳(49年12月現在)、まだ第一線も第一線、現役のパリパりで活躍中であることもご存知の通りだ。
 
拓郎の、あの強烈な存在感・・・それは現代という時代そのものがもつ矛盾、人間そのものが内在的に持っている矛盾を自らの中に集約し、自ら体現している者のみが持ちえる存在感ではなかろうか? つまり、拓郎そのものが矛盾したものである上、さらに拓郎は、そういった矛盾や自己撞着を回避しようとして逃げ隠れすることもなく、常にありのままの自分を露出してきた。それ故当然彼自身の発言や行動は誤解されたり、あるいは説得力に欠けるといった弱点をさらす、といったウラミもなかったではないが、その存在は水際だって鮮明に浮びあがってきた。常に危機感を孕んだ主京、大きく傾きながら揺れ動いてきた。そう、だからこそ拓郎の存在感・・・・手を触れれば火傷しそうなほどの熱い存在感が生まれてきたのではなかろうか。 
 
これほど強烈な存在感を持っていたアーチストが、これまでいたであろうか? いや前例がなかったからこそ、拓郎はまたスーパー・スターにも成り得たのだとぼくは思うのである。 拓郎のよき理解者である後藤由多加の次のような発言も、またそのことを暗示している。
 
「拓郎は気が変わるのが早くて、昨日の発言と今日の発言が180度変わることもしばしばあった。だから、非常にコミュニケーションを大事にしている人間であるのにもかかわらず、誰とでも会話ができるというわけにはいかなかった。自分の中でいつも揺れ動いている矛盾したものを相手に伝えることができなかったから・・・。『凡人の中庸」というが、彼は中庸を行くということを決してしなかったし、できなかった・・・」 
 
「拓郎の考え方、発想はまず自分を見つめることから始まる。自分の立場は今こうだから、こうあるべきだということでなく、自分はどうあるべきかというところから、自分の行動を律していくというわけだ。そして、自分は他の誰がどう思おうと、他人と違うんだという過剰なほどの自意識が、今日の拓郎を作ってきた最大の原動力であったと思う」かくして拓郎は、拓郎以外の何ものでもない大きな存在となった…これがぼくの出したひとつの結論でもあるというわけだ。
 
・最近の活画自身の発言を2~3列記してみよう。
 
「俺はこの頃すごく燃えているし、戦闘的になっている。この2~3年で燃えつきちゃいたいと思っているんだ。あと一年余りで30歳、年令的にも一区切りつく時期だし、ここらで壮烈に燃えつきて、そのあと寝ちゃえって感じだ・・・」
 
「『野の仏』って歌があるだろう。 俺は今すごくあの心男になりたいんだ」
 
「俺は40歳くらいまでは歌いつづけていたい、といっても ナツメロ・シンガーということでなく、今まで通り常に新しい歌を作りながらね」
 

ああ〜いいなあ。拓郎、若いなあ。今もそうだけど。国民栄誉賞モノだと思うけどね。きっと受け取らないとは思うけどね。♪〜くれるものはもらってしまえ 欲しいものはものにしたい その代わり、捨てるのも勝手さ もらうも捨てるのも勝手さ〜♪ だもんね。アイラブ拓郎!超オススメです。(=^・^=)