
ノンフィクション作家の細田昌志さんといえば、あのケッサク「沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝」に感動し、全作品読破を目指している!
たまたまご縁があって、2月23日(日)阿佐ヶ谷のカフェ「ひねもすのたり」にて、新刊『格闘技が紅白に勝った日』発売記念イベントがあったんだよね。
そこで細田さんと柔道家にして東大名誉教授の松原隆一郎さんとの公開対談でお会いできましたー!感動っ!!!

サインをいただいてツーショットでパチリ!

対談のテーマは「力道山対木村政彦から、曙対ボブ・サップまで〜昭和プロレス格闘技興行の謎と疑問」だったんだけど、その内容は書けません。記録に残さない方がよさそうで。(笑)そこで購入したのがこの本。いや〜!!オモシロイわー!!!一気に読んじゃいましたー!♪
「第30回小学館ノンフィクション大賞受賞作。“戦後復興のシンボル”力道山が他界して60年。妻・田中敬子は80歳を越えた今も亡き夫の想い出を語り歩く。しかし、夫の死後、22歳にして5つの会社の社長に就任、30億円もの負債を背負い、4人の子の母親となった「その後の人生」についてはほとんど語られていない──。
「力道山未亡人」として好奇の視線に晒され、男性社会の洗礼を浴び、プロレスという特殊な業界に翻弄されながら、昭和・平成・令和と生きた、一人の女性の数奇な半生を紐解く傑作ノンフィクション」そのエッセンスを紹介しよう。
・力道山は何かにつけて「アゴ」と呼ぶこの青年に、用事を言いつけた「アゴを呼べ」「アゴ、ウチまで上がって来い」猪木は「毎日、力道山には殴られたり蹴られたり、本当に散々な目に遭った」と述懐してきた。おそらく、そういうことは頻繁にあったのだろう。ただし、敬子はその場面を一度も見たことがない。給仕係の「ボンちゃん」を殴った場面は何度か目撃している。でも、猪木に手を上げている場面には一度も遭遇しなかった。
・むしろ、誰よりも可愛がっているように見えた。寵愛と言っていい。珍しいものが手に入ったら「アゴを呼んでやれ、アゴにも食わせよう」と必ず言った。すぐさま、敬子はアパートの敷地内に建つ選手の合宿所に電話を入れる。猪木本人が出るのはわかっていた。電話番だからである。
・青年に肩を揉ませながら、仕事の話を進めるのである。つまり「お前も一緒にこの話を聞いておけ」ということだ。こんな弟子はどこにもいない。だから、後年の猪木がやたらビジネスに手を出しても、敬子は不思議に思わなかった。不動産、 輸入販売、店舗経営・・・・・・。すべて力道山の受け売りである。影響を受けないはずがないからだ。
・猪木がいわゆる『ジジイ殺し』だったのは有名な話だろう。政治家、経営者、文化人、教育者、 裏社会の大物と、押し並べて籠絡されたものだが、力道山こそ第一号だったのかもしれない。ジャイアント馬場を指して「特別扱いだった」と言う人は多いが、敬子にはそうは見えなかった。馬場のことはヒット商品として扱ったにすぎない。特別扱いは猪木の方なのだ。猪木こそ、 力道山の後継者だった。その猪木が息を引き取って、静かに横たわっている。
・二歳下の猪木は弟のようである。馬場は三歳上。その年齢差が、今日までの関係性となった。静かに眠る『弟”の前で、神妙に手を合わせた敬子は、心の中でこう祈った。
「猪木さん、主人に会ったら、くれぐれもよろしく伝えて下さい」
「あなた、猪木さんが、そろそろお見えになる頃かと思いますけど『アゴ、よく来たな』って迎えてやって下さいな」敬子の脳裏に、同じように横たわる、夫・力道山の亡骸が甦った。
・「あいつを親方に預けようと思って」
「高砂部屋に?」
「ああ、力士にさせようと思う」
「プロレスをやめさせるんですの」
そう言うと「話は最後まで聞け」と、すかさず力道山は顔をしかめた。
「まず、身体をでかくさせる。それと、瞬発力も付けさせよう。あいつの素質と根性があれば、二年で新入幕は間違いない。三役まで上って大関が狙えるところまで来たら、プロレスに戻す。そうなったら、あいつの名前で客が呼べるようになっているはずだ」
・敬子は驚いた。夫はそこまで、あの青年に惚れ込んでいるのだ。軽い嫉妬すら覚えた。 雲を掴むような「力士転向計画」だが、計画は具体的に進んでいた。
・「猪木会長が天龍源一郎さんと対談したとき『初土俵は?』って会長が訊いたんです。『三十九年の初場所です』って天龍さんが答えたら『じゃあ、同期だったかもしれないな』ってボソッと呟いたんです。要するに『力士になっていたら、どうなっていたか』という想像は、終生、会長の中にあったように思うんです」(晩年のアントニオ猪木のマネージャーである甘井もとゆき)
・力道山は新たなビジネスチャンスを掴み、挽回どころか、当初を上回るブームを巻き起こしている。才覚もあったろうが、どちらかと言えば僥倖であり、執念ではなかったか。田中敬子は「三年経ったら、俺はプロレスを引退する」という力道山の言葉を何度も聞いている。自宅を訪ねた記者に「俺はいつまでプロレスをやんなきゃいけないんだ」とこぼしているのも聞いている。
・未亡人である敬子には、相続を放棄するという手もあるにはあった。事実「お腹の子は茅ヶ崎の両親に預けて、あなたはスチュワーデスに戻ればいい」と言う人もいた「上の三人は実子じゃないんだし、結婚半年の二十二歳の未亡人が、そこまで責任を負う必要はない」というわけだ。正論と言えば正論かもしれない。しかし、敬子はそれは考えなかった。「そんな無責任なことは出来ないでしょう。みんな路頭に迷ってしまう。千恵ちゃんは短大を辞めなきゃいけなくなる、よっちゃんとみっちゃんは、私立から公立に転校しなきゃなんなくなる。『そんなことを、あの人は絶対に望んでない』って思ったんです」敬子は社長を引き受けることにした。
・「私、百田敬子は亡き夫の後を継いで、リキエンタープライズ、日本プロレス、リキボクシングクラブ、リキ観光開発の社長に就任することになりました。二十二ですから、何も出来ないと思いますが、勉強いたしまして夫の霊に報いたいと思います。
・「負債どころか、実際の経営も赤字で、ここまでとは思わなかった。赤字だらけの会社を切り回しながらリングに立って・・・・・・。主人が想像を絶する過酷さの中で生きていのを、初めて思い知ったんです」
・《私は自分の年齢を忘れました。力道山の未亡人として、会社の社長として、子どもたちの母親として、身にあまる重荷を背負って、耐えていこうと決心したのです。能力も経験もない平凡な一人の女が、一人三役の大事業を切りまわす女に変身しようとしているのは、夫、力道山の愛情と信頼があればこそ、なのですから。そして、あなたの永遠不滅の名 "力道山”が私たちに残されたものの最大の遺産であること、それを守らなければならないのですもの》(『婦人生活』1964年8月号)
びっくりしたのは、冒頭で、先日「流し」でお会いした方の誕生パーティの様子がでていたこと!♪えー!田中敬子さんとお知り合い!すごい!!!
その他、「安部譲二と日本航空の同期」「3通の結婚披露宴招待状」「力道山が泣いたプロポーズ」「力道山が結婚を急いだ理由」「力道山の大粒の涙」 「60年前の大型複合施設の構想」などなど。
いや〜!すごい!事実は小説より奇なり。よくぞ活字に残していただきました!細田さん、今後は飲みましょう!!!超オススメです。(=^・^=)

