「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜駆けぬけた40年!…『吉田拓郎 疾風伝』

吉田拓郎 疾風伝 「中津川」から「09年ツアー」まで、駆けぬけた40年!

吉田拓郎 疾風伝 「中津川」から「09年ツアー」まで、駆けぬけた40年!

今年の目標のひとつに吉田拓郎に浸ること。永遠のマイ・ヒーロー・吉田拓郎ここでも何度か紹介したよね。(^_-)-☆


EVENT〜すべては拓郎から始まった!…『吉田拓郎展』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20100119

MUSIC〜吉田拓郎渾身のノーカット最新ライブ!『18時開演』
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20100204


もう、40年だってよ!私の人生の大半が拓郎に影響を受けてきたともいえる。その集大成ともいえるのがこの本。改めて拓郎の偉大さが伝わってくる。そのエッセンスを紹介しよう。(^^♪


・例えば、ビートルズ音楽史におけるひとつの「ジャンル」とするならば、拓郎は日本におけるひとつの「時代」そのものだった。その輝きは「超新星」に等しく、たゆまぬ光を放ち続けてきた。そんな拓郎史にあって、もっとも輝きを極めたのが、つま恋』という名の奇蹟である。主催者発表は5万人だが、警察発表は7万5千人。消防法などの配慮を考えれば警察発表のほうが実数に近かったのだろう。


よしだたくろうと名前を口にするだけで不思議な昂揚感に包まれる。その語感は緊張感を含み、男たちに「そこではない、未開の地へ進め」と背中を押す。あの夏、誰もが「吉田拓郎」になりたかった。ジーンズをはいて、ギターとブルースハープを鳴らす姿に熱狂した。60年代の少年たちが長嶋茂雄に憧れたように、70年代の男たちには拓郎こそが模倣の対象だった


・今なら当たり前のように「コンサート」を行うが、その開拓者こそ拓郎にほかならない。70年代前半、各地のコンサートは複数のアーティストが集まった形で実施されていた。そこには当然、自分の歌に耳を傾けないどころか、「帰れ!」と罵声を浴びせる客もいる。特に拓郎は、従来のフォーク歌手にない売上とアイドル性があったため「アンチ」の対象とされた。
そんな閉鎖的な状況に不満を募らせた拓郎は、日本中どこへでも、首都圏と同じ照明や音響を選び、自分だけの観客のために歌うことを決意する。


拓郎における「1975年の奇蹟」は、拓郎、陽水、泉谷しげる小室等の「フォーク四天王」によって「フォーライフレコード」が設立されたことである。小室が代表取締役、拓郎ら3人には「取締役プロデューサー」の冠がついていた。アーティストみずからレコード会社を作り、しかも要職に就くという方法論は空前にして絶後だった。<私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうか―>これが設立時のキャッチコピーである。


・拓郎はいわゆる芸能界的なシステムに背を向ける。テレビの歌番組に一曲だけで出演することを拒否した。音楽誌には出るが、女性誌芸能誌には出ない。かつてないポリシーにメディアと軋轢が生じたが、若者たちは拓郎のやり方を支持した。


吉田拓郎の声には、若者の血をたぎらせるアルコールが混じっている。―そう武田鉄矢は確信している。たとえば『人間なんて』を歌う合間に「ゆくぞぉーっ!」と煽る声は、稀代のアジテータに違いなかった。あの間合いや声そのものの波長は誰にも追随を許さない。


・聴き手は、拓郎とうい強烈な<発行体>を胸にかみしめ、人生の節目節目で「拓郎メロディ」を口ずさむ。もっとも早くに拓郎を知った人なら、それが40年もの長きにわたる。単に「青春のBGM」と呼ぶには物足りず、歌い手に対する濃密な時間として共有してきた。街角から歌が流れてくることの少なくなってきた今でも、拓郎の歌は、求めればそこかしこから響いてくる。「人生が終わる時まで音楽をやっているだろう」09年の春に拓郎がNHKの番組で発した言葉である。時代は再び、<吉田拓郎>に飢えている。


私も、拓郎に飢えている!(^◇^)