
昔の名曲をみていくと必ず出てくるのが村井邦彦氏。好きなのは「美しすぎて」(GARO)「虹と雪のバラード」(トワ・エ・モワ)「ミドリ色の屋根」(ルネ・シマール)「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ)「白いサンゴ礁」(ズー・ニー・ヴー)などなど。いい曲が多いよね〜!!!
さてこの本。日本のPOPSの生き字引の村井さんの自伝的エッセイ。
「教科書にも載っている国民的愛唱歌「翼をください」で知られ、数々の個性的な名曲で歌謡曲に新風を吹き込んだ作曲家が、デビュー間もない24歳で音楽出版社「アルファミュージック」を旗揚げする。高校生だったユーミンの才能を見出し、今や世界の若者が「シティポップ」としてもてはやす質の高い楽曲やコンセプトアルバムを次々と世に送りだし、アメリカのレコード会社と契約を結んで、YMOの世界進出を成功させる。その多面的な活躍を貫く「村井邦彦」の美学の源泉が、本書の此処かしこから顔をのぞかせる」そのエッセンスを紹介しよう。
・大正初期に生まれた父の村井正雄は大正デモクラシーの残り香を青 春期にたっぷりと味わったモダンな人で、 僕は大きな影響を受けた。若い頃からダンスや玉突きをたしなみ、英語も勉強していた。 レコード棚にはジャズやタンゴ、クラシックなど、 何でもそろっていた。 僕は父の集めたレコードを繰り返し聴いて育ったのである。
母の美彌子は父より十歳下で、青春真っ盛りの頃に英語は敵性語、 ジャズは敵性音楽にされてしまう。 母にとっての音楽は鈴木三重吉が創刊した児童文芸誌「赤い鳥」 の童謡になった。多くの童謡を覚えていて「からたちの花」「 かなりや」などを歌ってくれた。
後年、僕はその名も「赤い鳥」というフォークグループのために「 翼をください」を作曲する。 教科書にも載って僕の代表作となったこの曲の原点は、 父のレコードで聴いたジャズと母が歌ってくれた童謡にあるといえ るだろう。
一九六九年、 二十四歳の時に音楽出版社のアルファミュージックを設立し、 作曲と会社経営の二足のわらじを履くようになった。 フランスの音楽出版社からある楽曲の日本における出版権を格安で 買ったのがきっかけだった。今と違って音楽著作権の価値など誰もよく分かっていなかった時代 だから、みんなから大丈夫かと心配された。
音楽出版ビジネスに乗り出してはみたものの、 国内同業他社のバックには大手電機メーカーや放送局がついていた 。ユーミンはまだデビュー前だし、 当時のアルファは吹けば飛ぷような弱小会社にすぎなかった。 実際、 力のある会社にねじ伏せられそうになる場面も多々あったが、 負けるものかと必死に頑張った。
僕らの力の源泉は何か。音楽そのものではないか。 音楽は大きな資本や組織に対抗する力になり得るだろう。 そう考えて「ウィー・ビリーブ・イン・ミュージック(僕らは音楽を信じている)」をアルファのスローガンに掲げた。
ユーミンや赤い鳥、ガロといった才能を世に送りだした後、 僕は一九七七年にレコード会社のアルファレコードを設立し、 イエロー・マジック・オーケストラ(YMO) で欧米市場に打って出る……。予告編はここまで。次回から詳しく述べていきたい。
・ユーミンとの出会いは1971年一月、 場所は千駄ヶ谷の新しいビクタースタジオだった。 担橋かつみが二作目のソロアルバムを録音していた。スタジオを誇れると調整室から新な曲が聞こえてきた。 ディレクターの本城和哲さんが先に録音した曲をチェックしていた のだ。僕は新鮮なメロディーと色彩豊かな和音に強く引かれた。 ユーミンが加橋に提供した曲だった。
僕はアルファの専属作家にならないかと誘った。 彼女はまだ高校生で、 良家の子女なのだろうと思わせる礼儀正しい人だった。 謙虚で控えめだが自分の意見ははっきりと言う。 これはなかなかの人物だと思った。
僕が一番好きな彼女の曲は「雨のステイション」。 こぬか雨の降る駅で別れた恋人を思う歌だ。 母の実家があった高井戸を思い出す。雑木林があり、小川が流れ、 武蔵野らしい風景だった。 ユーミンの感性は武蔵野の自然にはぐくまれたのではないかと思っ ている。
はあ〜!!!ユーミンがいなかったら?ってこと考えると、村井さんの功績がわかるよね。音楽ファン必読っ!!!オススメです。(=^・^=)

