「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「へらさけ犯科帳 山下洋輔 エッセイ・コレクション」

先日、読んだこの本。タモリがいかにしてメジャーになったかのハナシが詳細に載っていて人との出会いってすごいなー!と思っていたところ。
 
その出処がこの本だと知って、さっそく読みました!タモリ誕生エピソード。そのエッセンスを紹介しよう。
 
タモリに最初に会ったのは、九州だ。'72年より後ではない。旅先で騒ぐのがまだ新鮮な頃で、真夜中過ぎまでホテルの部屋で大騒ぎをしていた。何をしていたかというと、おれはベッドに正座し、デタラメの長唄を唄い、ユカタ姿の中村が踊っていたのだ。中村は籐椅子をッヅミのようにかかえ、ヨォーッカッポンカッポンと言いながら踊った。そのうち、籐椅子の底が抜けてしまった。すかさずそれを頭からかぶった。
 
〜そこで虚無僧こもかぶりぃ〜〜
 
唄い踊っていると、部屋のドアが開いて、知らない男が、中腰で踊りながら入って来た。あざやかな手つきだ。時々、ヨォーなどと言いながら中村の側までやって来た。それから妙な手つきで、中村の頭から籐椅子をとってしまい、自分がかぶって踊り続けた。我に返った中村が、踊りをやめ、凄い勢いでまくしたてた。
 
少しは自信のあるデタラメ朝鮮語でだ。すると驚いたことに、この男はその三倍の勢いで同じ言葉を喋り返したこの照り返しにびっくりした中村はそれならと中国語に切り換えた
男は五倍の速さでついてきた。これはいかんとドイツ語に逃げた。ますます男は流暢になった。 イタリア、フランス、イギリス、アメリカと走り回るうちに、男の優位は決定的になってきた。 最後に男の顔が急にアフリカ人になってスワヒリ語を喋り出した時は、おれはたまらずベッドから転がり落ちた。すでにそれまでに、笑いがとまらず悶絶寸前だったのだ。中村はいさぎよく敗北を認め、ところであなたは誰ですか、と訊いた。「森田です」とそいつは答え、これがおれにとってタモリの最初の出現だったというわけだ。
 
おれは東京に帰ってから溜まり場の「ジャックの豆の木」で会う人ごとに、この九州の天才のことを吹聴した高信太郎さんはじめ芸には自信のある常連達は興味を示し、ある日、ママのA子女史の発案で、 皆で新幹線代を出し合って一度ここへ呼ぼうということになった。そして、赤塚不二夫長谷邦夫高信太郎の漫画家諸氏に加え、奥成達氏、さらに筒井康隆氏までが待ちかまえていたこの小さなバーに、ある日タモリはやって来た。タモリは熱演し、全員から圧倒的な支持を受けた。75年の夏だ。そしてこの時、皆がリクエストの形で出したアイデアがいまの数々のタモリのレパートリーの土台となった。このことをあの時の最初のタモリファン達は誇ってよいと思う。
 
赤塚不二夫氏が寝場所を提供し、高平哲郎氏がレコードを作るべく動き出した。おれ達の頭の中はわけのわからない言葉で一杯になった。そして、中でも坂田の頭は、河野典生氏宅のパーティーでついにカチ割れ、ここにハナモゲラ語が誕生したのだ。
 
いいなあ。この誕生秘話とメイキングストーリー。よくぞ、残してくれました!こんなふうに人っていきなり有名になるんだね。ワタシもあとから続くぞー!!!オススメです。(=^・^=)