「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「くるま じゃらん じゃらん」(森美樹)

 
若い頃は、クルマが欲しくて、というか、クルマがなければ女の子とデートもできないし、付き合うことできない、という時代だった。まさか、自分がクルマを手放すとは思わなかった!もう25年くらいになるのかなー。
 
といいながら、なんだかんだいって、クルマは月数回、レンタカーやカーシェアで乗っているんだけどね。(・∀・)
 
さてこの本。雑誌『自動車工学』『新・青信号赤信号』という欄に連載されていたエッセイ集をまとめたもの。自動車、人力車、馬車、電車、自転車まで車輪という意味の「クルマ」のついた乗り物のエッセイ。なかでもこのトシになるまで知らなかった天才の話は特に印象に残った。そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
【早すぎた天才 内山駒之助】
 
 
日本で最初のガソリン自動車は内山駒之助の手で作られた。内山は、銀座で自転車の販売をやっていた吉田眞太郎と知り合い、吉田がアメリカから持ち帰ったエンジンを使って、カタログ程度の資料を頼りに、わずか一、二ヶ月でガソリン自動車を組み立ててしまった。エンジンはアメリカ製なので、純粋の国産車とはいえない。国内組み立て車というべきだろう。このとき、内山は若干二十歳。明治35(1902)年のことである。
 
内山は、さらに本格的な国産ガソリン乗用車の製造に乗り出した。「自動車の宮さま」有栖川宮威仁(ありすがわのみや たけひと親王の知遇を得たのである。宮さまは、すでにヨーロッパ外遊の帰途、フランス製自動車ダラックを持ち帰り、自らハンドルを握るほどのマニアだった。ところが、日本人としても小柄な宮さまにとって、外国製の自動車はひどく扱いにくかったらしい。宮さまの信頼に感激した内山は、文字どおり寝食を忘れ、新婚の奥さんもほったらかしで、一年数ヶ月でガソリン自動車を完成した国産ガソリン自動車第一号の誕生である。明治40(1907)年、内山、25歳だった。
 
この成功は、上流社会に大きな反響を呼んだ。内山の令名は轟き、自動車の注文が相次いだ。なにせ、自動車なるものが日本に登場してから、わすか6、7年しかたっていない。結局、内山が手がけた国産車は10台にのぼり、うち2台はアメリカ製エンジン、ほかはすべて内山の国産エンジンで、名実ともに完全な国産車だった
 
内山は早すぎた天才だった。彼の技術力は、外国車に遜色のない国産車をたちまちのうちにお作り上げるほどであったが、時代のほうが彼についてこなかった。10台のタクリー号のオーナーは、
 
1号車 有栖川宮威仁親王 2号車 井上馨 4号車 大日本ビール 10号車 福沢諭吉 と、錚々たる名前が並ぶ。
 
タクリー号の生産が10台で止まってしまった一番大きな原因は、当時の日本人の支配的だった舶来崇拝思想であろう。世の中あげて、舶来品といえば上等、上等品は舶来とうイメージ感覚だったのである。それに、宮さまの死もダメージだった。明治の終わりとともに、国産自動車の有力な後援者だった有栖川宮も亡くなり、後継者がいないまま、東京都港区に有栖川公園だけが残っている。
 
その他「ロシアにおける広瀬武夫は知らなかった!

 

へー!知らんかったなあー!なんで、歴史の教科書に載っていないんだろう。こういう隠れた天才の話って好きだなあ。φ(..)メモメモ オススメです!♪