
今年、六十歳、還暦となって、明らかにあらゆることが変化してきている。人生の後半、折り返しを過ぎ、完全に「下山」に入っている。人生の集大成をするときにきている。そんなときに目に入ったのがこの本。
「どんなに深い絶望からも人は立ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想」そのエッセンスを紹介しよう。
・「民」 という字の語源には、残酷な意味がある。 『漢字源』によれば、〈目を針で刺すさまを描いたもので、 目を針で突いて見えなくした奴隷をあらわす。
・私たちは明治以来、近代化と成長をつづけてきた。 それはたとえていえば、山に登る登山の過程にあったといえるだろう。だからこそ、世界の先進国に学び、 それを模倣して成長してきたのである。しかし、いま、この国は、いや、世界は、 登山ではなく下山の時代にはいったように思うのだ。
・私たちがいま学ぶべきは、先進諸国にではない。 すでに下山した国々、いま下山中の国々の現実ではあるまいか。下山の先進国、 という言いかたは変だが、ギリシャも、イタリアも、スペインも、ポルトガルも、英国も、 すべて下山の先進国である。そしてまさにいま下山にさしかかった大国がアメリカだろう。私たちがもしアメリカに学ぶべきものがあるとすれば、 発展と成長の過去ではなく、 大国が急激な下山をどうなしとげるかを注目すべきなのだ。 なすすべもなく崩壊していくのか。それとも起死回生のエネルギーを発揮しておだやかに軟着陸するか 。
・世界は確実に下山していく。 新興国といわれる巨大国家にしてもそうだ。いまや国境なき放射能の時代に、一国だけの興亡はありえないのである。そんな時代に私たちは生まれあわせた。 それをくやんでみたところで仕方がない。どんな時代にも、それ相応の人間の営みというものがあるのだから。 いとな
・下山、という言葉がある。普通は、 山を下りるという意味だ。登山に対するこの「下山」ということに、 私は長いあいだずっとこだわり続けてきた。なぜ下山に関心をもつのか。それはたぶん、登山に対して下山というプロセスが、 世間にひどく軽く見られている からかもしれない。軽視されているというより、 ほとんど無視されているのだ。登ることに対して、下りることは、 ほとんど問題外だったのではあるまいか。それは、現在もそうだろう。
・これは、しごく当り前のことだ。登頂したあとは、 麓をめざして下山するのである。登ったら下りる。永遠に続く登山というものはない。くり返しになるが、 登った山は下りなければならないのである。登山して下山する。それが山に登るということの総体である。 厳密にいえば、登・下 山、というべきかもしれない。
しかし、この下山ということについては、 あまり人は意識しないように思われる。実 際には登山という行為の、後半部分というか、 しめにあたる重要な場面であるにもかか わらずである。そこにはやはり、「下る」 ということに対しての軽視の感覚があるようだ。登ることについては熱中できても、下りること、 下ることにはほとんど関心がない。 それが私たちの普通の感覚である。
・いま、私たちは未曾有の大災害に見舞われ、 呆然としてなすすべがない有様だ。福島原発が直面する現実は、数年で解決されるような問題ではない。しかし、 私たちは二度の核爆弾の被災のなかからたくましく立ちあがってき た民族である。すでに「立ちあがれニッポン」という声が巷にあふれ、 メディアでは復興をめざす議論も活気をおびてきているようだ。
どんなに深い絶望からも、人は立ちあがらざるをえない。 核に汚染された大地にも、 雑草は生え、樹木は根づいてきた。しかし、と、そこでふと思う。私たちの再生の目標は、 どこにあるのか。何をイメージして復興するのか。
・山に登る、ということは、三つの要素があると思う。一つは、山に登る、こと。二つ目は山頂をきわめること。三つは、下山すること、である。その三つは、切り離しがたくつながっている。

