一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

BOOK〜『他人を見下す若者たち』(速水敏彦)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

今から24年前、大学4年の時に母校に教育実習に行った。このことは、大学生活の中でもベスト3に入るくらいの体験だった。教師になる可能性はほとんどなかったのだが、大学でしか経験できないし、将来の選択肢は多い方がいいだろうということで兄からも勧められたことが理由だ。



私は中一の理科のS先生の元に配属され、主に中一、中三の理科の授業を担当することになった。S先生は、私に、「先生、今の子どもたちは昔とちょっと違うんですよ」という。「どのように違うんですか?」と聞くと、「例えば、掃除などでは細かい指示を出さないとやらない。自分の持分が終わったら他の人を手伝うということをしない。そんなところですかね」という。ふ〜んと思ってみると、確かにそうだったような、自分たちの世代のころからそうだったような…。事実だったのか、感覚だったのか…(^^ゞ 


さて、最近は、やる気がなく、謝まらず、他人を軽視し、すぐキレる、そして、根拠のない有能感に浸る若者が増えているのだとか。この本は教育心理学の研究データが示す新しい日本人像を紹介しつつ、その変化の最も根源的な要因を追究している。そのエッセンスを紹介しよう。



「キレる」という言葉が今では日常的に使われるように、現代の若者たちはちょっとしたことで怒りを露わにするようになった。「ジコチュウ」という言葉も生まれた。人は自分の立場ばかりを見て他人の立場を見なくなる。つまり以前に比べて人々は他人を見下し他者軽視・軽蔑をいとも簡単にするようになる。この他者との関係の捉え方が自分自身の捉え方にも影響を及ぼし、さまざまな出来事の際に生じる感情ややる気のあり方そのものを規定するのではないか。


・さらには、ITメディアの影響を受けた人たちがいつのまにか身につけた仮想的有能感とでも呼ぶべきものである。これは他者軽視する行動や認知に伴って、瞬時に本人が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的な感覚である。


先生たちは、「怒り」に関しては、今の子どもたちの方が、20〜30年前の子どもたちよりも感じることが多くなり、表出も多くなったと見ていた。それはすべての子どもがすぐに怒るというわけではなく、極端に怒りやすい子どもの数が多くなったということのようである。また、「むかつく」「最悪だ」というような言葉で、怒りの心情をしばしば表現するという。その背景として、今の子どもの「常に自己中心でありたい」「子どもが王様のようになってきた」「気持ちが不安定」「我慢ができない」「セルフコントロールができない」「忍耐力がない」などの特質があるという。
怒りの感情表出としては、「机や壁をける、物にあたる」「椅子をもちあげる」「すぐ手が出る」「『ぶっ殺してやる』と平気でいう」「『ウザい』と言って話を聞こうとしない」などがある。このような怒りに対して先生が注意した場合に「自分だけが怒られているという被害妄想がある」ので反発を招くことが多いようである。


・最近の日本人が、自分は世の中のたいていの人よりは優れている、と考えやすいことを「消極的自己高揚」命名している。「自分には他人にはない何か優れたものがあるにちがいない」という思いを信念のようにして抱こうとするのである。最近の社会では「オンリーワン」という言葉が流行歌の歌詞にもなり、非常によいイメージが持たれている。


・個人的経験や社会・文化的要因によって、本人にもあまり意識されない形で仮想的有能感が形成されると、対人関係などで他者軽視という態度や行動として表面化する。そして、人をバカにした態度や行動をとることによって、「自分は有能だ」という仮想的有能感が強化される。このような繰り返しの中で、仮想的有能感が一層強固なものになっていく。その背景には「希薄化する人間関係」が存在する。現代の若者は特に見知らぬ人たちには、一般に冷淡で無関心である。すぐに「カンケーないよ」という言葉を発する。


その他、「悲しみにくく、喜びにくい子どもたち」は、確かにそうかも。今は本当に便利に平和になった分過保護になっているのかもね。考えさせられる一冊です。(^u^)