「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「石原慎太郎と石原裕次郎ー嵐を呼んだ兄弟の昭和青春史ー」(大島信三)

 
「流し」で必ずといっていいほどリクエストがあるのが石原裕次郎。「夜霧よ今夜もありがとう」「赤いハンカチ」「ブランデーグラス」「北の旅人」「俺は待ってるぜ」などなど。
 
しかしワタシが物心がついたころには「太陽にほえろ!」のボスだったので、俳優のイメージが強くて歌のイメージが薄い。同時に、石原慎太郎は政治家だったので、作家としてのイメージが薄い。つまり、この二人の人気絶頂期を知らないのだ。

さてこの本。
「ペン、映画、歌で昭和を駆け抜けた石原慎太郎と石原裕次郎。彼らの軌跡なくして1950~70年代の日本を語ることはできない。二人の人生はエネルギッシュな昭和を背景に、天国と地獄が紙一重、一歩違えば一家破産の危機に瀕していたこともある。
本書は、兄弟の絶頂期の凄まじさと、その陰にある苦闘を描き出す。Z世代が注目する昭和レトロの魅力や、対照的な兄弟の性格・人生観、そして稀に見る兄弟仲の秘密を探りながら、同時に日本の高度成長を振り返る一冊である。当時を知る世代には懐かしく、昭和を知らない世代には新鮮な驚きをもたらすであろう。その半世紀前の活気や混沌、そして夢と可能性に満ちた日々が、本書のページから再び息づく。心躍る昭和の熱気をぜひ感じ取ってほしい」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・石原慎太郎と石原裕次郎という兄弟が戦後日本に旋風を巻き起こしたのは、ひとえにペン、 映画、歌という三要素のおかげである。文壇も邦画界も歌謡界も一番意気盛んなときに、二人は颯爽と登場した。日本の高度成長とともに歩んだ石原兄弟の青春時代を抜きにして、少なくとも一九五○年代から七○年代の日本社会は語れないのである。
 
石原兄弟は戦後日本の復興期といわば添い寝しながら歩んできた。石原慎太郎や石原裕次郎の絶頂期の人気の凄まじさを知る世代は年々減少している。
 
二人の人生は天国と地獄が紙一重だった。 一歩まちがえれば、一家は破産していたかもしれないのだ。石原慎太郎は「もし私が芥川賞も受賞できず、作家としても文壇デビューできずにいたら、私と裕次郎の将来は一体、どうなっていたのか。それを思うとぞっとします」といった。すんでのところで一家は救われるが、それを可能にしたのは昭和という時代のパワフルなエネルギーであった。
 
石原兄弟の波瀾に富んだ生涯を辿って、つくづく思ったのはやはり出会いと運ということだった。
 
・血液型は慎太郎がAB型、裕次郎がA型。兄は気が短くどちらかといえば一匹オオカミで、遠慮会釈なく他人を批判した。弟は鷹揚な親分肌、他人の悪口を洩らすことはめったになかった。兄弟の異なるキャラクターはどうして生じたのか。また稀に見る兄弟仲のよさといわれたが、具体的にはどうだったのか。
 
・1932(昭和7)年9月30日、石原慎太郎は兵庫県神戸市須磨区大手町で生まれた。役所に届けられたのは「 愼太郎」で、文壇デビュー当時からしばらくはこの旧字を使っていた。江藤淳(文芸評論家)、大島渚(映画監督)らの逸材も同じ昭和七年に生まれている。
1934(昭和9)年一二月二八日、弟の石原裕次郎が神戸の同じところで生まれた。二年半後に一家は北海道の小樽へ移る。昭和9年には井上ひさし(作家)、黒川紀章(建築家)、田原総一朗(ジャーナリスト)らが生まれた。
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昭和ひとけた世代といっても、田原によれば、昭和7年生まれと昭和9年生まれの「二歳の差というのは大きい」という。7年組は多感な旧制中学の一年生で終戦を迎えて、一学期と二学期で価値観の大変動に見舞われることになった。「一学期まではこの戦争は聖戦である、 世界の侵略国であるイギリスやアメリカを叩き潰してアジアを独立させるための戦争なんだと、僕もそう教わった。それが二学期になると、あの戦争は日本による侵略戦争だったとなる。 それ以来、大人たちがもっともらしい口調でいうことは信用できない。国家は自分を騙すんだなあという気持ちがある」と田原は振り返る。
 
・終戦時、石原裕次郎や田原総一朗はまだ小学五年生で、学徒動員や軍事教育の洗礼を受けていない。石原慎太郎や大島渚は、たとえほんの少しであれ、その経験があった。戦禍の真っただ中にあった中国大陸や朝鮮半島は例外として、わずか二年の差でありながら、彼等の間に歴然としたちがいがあった。これが時代の転換期の凄さというものであり、石原兄弟のキャラクターの差にも少なからず影響している。
 
もう三八年近く前になるが、「昭和三、四年から一一、二年生まれぐらいまでの世代にはいろいろ面白い人がいますね。政界は知らないが、少なくとも芸術の世界にはジャンルはちがってもたくさんいますね」と石原慎太郎は筆者に語った。そのとき、彼が名前をあげたのは羽仁進(映画監督、昭和三年生まれ)、開高健(作家、同五年生まれ)、武満徹(作曲家、同)、前出の大島渚、浅利慶太(演出家、同八年生まれ)、大江健三郎(作家、同九年生まれ)。「名前をあげていったらきりがないんだけど、みんな共通しているのは饒舌なのね。それも早口でね。とにかくメッセージをたくさん持った世代だった」と慎太郎。たしかにメディアの世界へ入った筆者が仕事で接したこの世代の知識人は、熱くなると機関銃のようにまくしたてるタイプが多かった。 
 
・中学時代からの親友、江藤淳は石原慎太郎を「無意識過剰」と評した。こういったら、他人からこう思われるのではないか。ああいったら、こう勘ぐられるのではないか、といった意識がまったくない。「中国でなにが悪い。日本で中国といえば、広島県や岡山県のことだ」といってもなかった。
 
・四男の石原延啓 (画家)によれば、「自宅やお招きしたお客様と一緒に食事をしている途中でも何か閃きがあると「じゃあ」と切り上げて二階の書斎に行ってしまうことさえありました」 。自分ファーストと思われようと、無礼な男と軽覆されようと、 創作にかかわる貴重なきを無駄にしたくなかったのだ、
 
・石原光子は生一本な性格で、これは許せないと思うと、他人の息子であろうが憤然と平手打ちを食らわした。激しい気性は晩年になってもあまり変わらず50を過ぎた石原慎太郎が、他人のいる前で高齢の母親からこっぴどく叱られている姿が目撃されている。
 
・母親のいわなくてもいいことをいってしまう毒舌やせっかち、いきなりキレてしまうエキセントリックなところは、そっくりそのまま石原慎太郎に受け継がれた。三島由紀夫との初対面で「僕、三島さんて、もっと大男かと思ってました」と、誇り高き男性のプライドを損なうようなことを平気で口にしたのは彼くらいであろう。なにしろ晩年に至るまで、「まだ生きていたのか」といわれるより、「あいつ早く死なないかな」と憎まれ口をたたかれる存在になりたいと、広言してきた人なのだ。
 
この本を読んで父の青春と同時にワタシが小さかった頃のことを思い出したなあ。オススメです。(=^・^=)