
この本のタイトルを見て「おっ!!!」と思うのは陽水ファンだねー!!!!
この本が書かれいてるのは陽水46歳、いまから30年前だよ!!陽水の伝記があったとは知らんかった!!!!小学校の頃、近所の書店でフォークの単行本に陽水の伝記マンガを読んだのを思い出したわー!!!陽水生誕のドラマ!そのエッセンスを紹介しよう。
・高校時代好きだった彼女に歌をつくってプレゼントしたらどうだろうと思ったのである。問題はどうすれば曲ができるかということだった。彼はビートルズが好きで、ビートルズの曲は全部きいていたが、それまで自分で曲をつくろうなどとは考えたこともなかったので、どうすればいいのかまったく分からなかった。しかし彼は友だちの兄から借りたギターと、自分の声を持っていた。やってみればできるだろうと思った。
要は、どんな方法であれ、メロディをつくり出すことなのだ。そしてメロディができ
たら、自分でうたってテープレコーダーに録音すればいいのだ。
・「おれの曲のつくり方というのは、だいたい自分の声でうたいながらつくっていくんだよ。もちろんギターは弾くんだけどさ、ギターをティンティンティンと弾いて、うん、このメロディだというふうにやるんじゃなくて、ラララララーとうたいながら声
でメロディをさがしていく。それで、これこれ、この感じだよというふうに決めてい
くわけ。それからそのメロディに合わせて歌詞をつける。最初からずっとそのやり方たね」
そのときもそうしてつくった。じっさいにやってみると、ほとんど一瞬のうちにメロディがロからついて出てきた。自分でも信じられないぐらい簡単だった。彼は曲ができたことよりも、そのことに自分でおどろいた。あとは歌詞だった。好きな女の子にあげる以上、重要なのは歌詞だった。彼はそれまで曲もつくったことがなかったが、詩も書いたことがなかった。
・ある日のこと質屋から戻ってきたラジオで深夜放送をきいていると、とつぜん変わった歌が流れてきた。京都のザ・フォーク・クルセダーズという大学生のグループがうたう『帰ってきたヨッパライ』という歌だった。一緒にそれをきいていた仲間たちは、その歌の斬新さにおどろき、面白い面白いと感心した。井上陽水も面白いと思った。しかし彼は他の仲間とはすこしちがうことを考えていた。
・「おれっていまもそうなんだけどさ、自分の意志というものがなくはないんだけど、 ほとんどないに等しいぐらいなわけよ。だから歯科大学に行こうとしたときも、自分から行こうとしたわけでもないし、かといっていやいや行こうとしたわけでもない。 そんな感じだからさ、初めから迫力がないよね」
・基本にはビートルズがあるんだけど、日本で最初に刺激を受けたのは『帰ってきたヨッパライ』なんだよ 」。『帰ってきたヨッパライ』は彼の音楽的才能を刺激し、のちに彼が音楽活動を開始するための重要な伏線にはなったが、だからといってザ・フォーク・クルセダーズのようになろうとして翌日から作曲をはじめたわけではなかった。彼は依然として父親の跡を継ぐために歯科大学を目ざす浪人生で、しかも授業にまったく出席しない予備校生だった。「どうやったら勉強しないで合格できるかということばかり考えていた」
・テープの男の歌は、彼が知っている博多のアマチュアのフォーク、財津和夫、武田鉄矢などとはぜんぜん感じがちがっていた。自分のつたない恋愛体験を私小説のようにせつせつと訴えるのが彼の知っているフォークだったが、テープの男の歌にはそういうところはまったくなかった。ハーモニーのはいったアップ・テンポのメロディも、何か新鮮な感じだった。だが何といってもすばらしかったのは声だった。家庭用のテープからの音でも疑いようがなかった。「人の心に触れる何ともいいようのない哀愁みたいなものを感じたんですよ」と野見山実はいった。
・そうこうしているうちに昭和四十四年の九月四日になり、デビュー曲の『カンドレ・マンドレ』がレコードとして発売された。井上陽水は自分が天才だと思っており、 曲にも自信があったので、きっと大ヒットして日本中が大騒ぎになるだろうと考えていた。
・「ホリ・プロにはいって最初に社長に会ったとき、レパートリーはどれくらいあるのかときかれて、二千曲といった覚えがあるんだよ。本当は『カンドレ・マンドレ』のほかに二曲しかなかったんだけど、でも心の中ではそれぐらいならいつでもデッチあげてやると本気で思ってたからね。じつに自信があったわけよ」と彼はいった。すでに世界をつかんだ気分だった。
・彼がほしかったのは小椋佳のようにまったく手垢のついていない人物だった。
そういうときに目のまえに井上陽水があらわれたのである。
「まず、ユニークなやつだなと思った」と多賀英典は井上陽水のデモ・テープをきいたときの印象を語っている。
「それまでの作詞家のいわゆる名作というのは、どっかに文学志向みたいなものがあって、読むときれいではあるけど、まわりくどくて、歌の詞としてはどうかなとぼくは思っていたんです。ところが陽水のはそうじゃなかった。自分の身近なことを、まわりくどくなく、じつにストレートにとらえている。パッときくとちょっと気恥ずかしくなるような言葉なんだけど、そのストレートな感じが何ともいえなかった。
たとえば、『傘がない』はデモ・テープにはいってませんでしたけど、あの中に "行かなくちゃ きみに会いに行かなくちゃ」というフレーズがありますよね。あれなんか、文章で読んだらべつにあたりまえじゃないかと思うだけですよ。でも歌で表現されるとじつにみごとになる。ようするに、言葉そのものに対する感覚が、そでの既成の歌詞とまるでちがうんですよ」と彼はいった。それ以上に天性のものを感じたのは、野見山実と同様、 やはりその声だった。
「音域が広くて、きいているだけで気持がよくなるようなじつにいい声だったよね。
その天性の声で、それまでとはちがう斬新な歌詞にメロディとリズムを刻めたとき、 彼の独自の曲ができるだろうと思いましたね」
・多賀英奥には、誰が反対しようと勝算があった。シングル盤だと十万枚売れなければヒットということにならなかったが、アルバムなら一万枚でよかったからだ。それで会社からヒット賞をもらえた。ということは、不特定多数の人間ではなく、ある種のせまい範囲の人間を納得させればいいのである。多賀英典も井上陽水に劣らず、自信満々の男だった。彼は、一万人くらいの人間を納得させるアルバムならいつでもつくってやると思っていた。
・芸名をアンドレ・カンドレから井上陽水に変えたのもこのときだった。名前の由来を聞かれる面倒くさい。陽水(アキミ)という本名を名乗るのはいやだった。「そのままイノウエヨウスイでいいじゃないかといったんです。それであっさり決まったような気がしますよ」井上陽水は多賀英典にそういわれたとき、とても新鮮な感じがした。
彼はその名前が気にいった。まるで別人になったような気がした。
・その問題を一挙に解決したのはモッブスだった。彼らにはヒット曲ともなかったが、音楽的に実力のあるバンドだということは業界内で広く知られていた。リード・ギターを弾いていた星勝は自分の持っている音楽的知識を生かし、アレンジャーになろうと考えていた。その彼が初仕事として井上陽水の初アルバムの編曲を担当することになったのである。そして、サウンドはそっくりモッブスが引き受けることになった。
・井上陽水も、モップスと星勝の実力は知っていた。星勝が編曲をやってくれるならきっといいものができるだろうと思った。互いによく理解し合っていたからだ。そして昭和四十六年の秋になるといよいよレコーディングがはじまった。誰もが新しいことをめざしていた。
・歌詞は、ビートルズの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』という曲の『新聞を読んでいたらランカシャー地方に四千の穴があいたと書いてあった”というフレーズがヒン
トになった。こういう切り口というのはいいなとずっと思っていたのである。
その二つの曲をヒントにして、彼は大急ぎで『傘がない』をつくった。多賀英典は出だしの歌詞を見て仰天した。"都会では自殺する若者が増えている」 などという歌詞は、見たこともきいたこともなかったからである。だが井上陽水自身がうたうのをきくと納得した。そしてあらためて、こいつはユニークなやつだと思った。
・陽水は、父親の位牌の前でさっそく新曲づくりにとりかかった。
彼は『カンドレ・マンドレ』や『ビューティフル・ワンダフル・バーズ』をつくったころはコードのことなど深く考えたことがなかったが、その後音楽に対して自覚的になってからは、マイナー・コードの曲よりもメジャー・コードの曲にあこがれるようになっていた。マイナー・コードで作曲すれば、日本人が好む情緒的でセンチメンタルなメロディができることは知っていたが、涙を誘って人の歓心を買うような真似をするのは低級なことだと思うようになったのだ。
彼がつくりたかったのは、ニューヨークのしゃれたナイト・クラブでうたってもおかしくないような、からっと乾いたメジャー・コードの曲だった。しかし頭ではそう考えていても、現実にできるのはいつもマイナー・コードの湿った曲ばかりだった。
『断絶』も『人生が二度あれば』も『傘がない』も、みなそうだった。彼はそのこと
にうんざりしていた。ところが父親の位牌の前でギターを弾いていると、生きていたころの父親のことを考えて、気持はとてもセンチメンタルになっていたにもかかわらず、なぜかメジャー・コードのからっと乾いた曲ができたのである。彼は不思議な気持で、思いつくままに歌詞をつけた。
探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
かばんの中も つくえの中も
探したけれど見つからないのに
・つぎのアルバムを早くつくりたい気持は彼も一緒だった。出せば売れるということはもう分かっていた。だが問題は、陽水には、新しいアルバムをつくるだけの新曲がまだなかったのである。「それで結局、すぐにつくれるライヴのアルバムを出すしかないなということになったんです」アルバムは、《陽水ライヴもどり道》というタイトルで発売と同時に一ヶ月か二ヶ月の間にものすごいスピードで五十万枚を突破してしまった。誰も考えてみなかかったことだった。
「父、井上若水の歯科医への道」「井上陽水(あきみ)から陽水(ようすい)へ」「高校時代は、スポーツと恋の音楽(ビートズ)」「ボブ・ディランから受けた詞の書き方」「詞の前半が適当であればあるほど、現代の光景が浮かび上がる」「『帰れない二人』誕生秘話」「『氷の世界』の社会現象」「年に180回のライブで駅弁を見ると吐き気が」「テレビ出演拒否」「二十五歳で人生を絶頂に」など。
すごいなあ……まさに彗星のごとく音楽業界に出てきたんだね……。なんというドラマチック!!!やっぱり陽水はいいなあ。超オススメです。(=^・^=)

