
「ベストセラー『ざんねんな偉人伝』の続編。いいなあ。これ、偉人ってやっぱりどこか通っていたんだね。(=^・^=)
もはや、「偉人」と言っていいのかわからない歴史人物たちの、強烈な「ざんねん」列伝。源頼朝、足利尊氏、伊藤博文、伊達政宗、アルキメデス、コロンブス、カエサル、ガンジーらが、満を持して登場」そのエッセンスを紹介しよう。
内閣総理大臣を2回務め、早稲田大学の創設者としても知られる、 大隈重信。1922年、 大隈の死を悼む国民葬が行われた。そのときに集まった人は、 約30万人。このことだけでも、 大隈重信という人間が、 いかに国民から愛されていたかがわかるだろう。
大隈が支持されたのは、 どんなことがあってもくじけることなく立ち上がる不屈の精神と、 人を許す寛容な心があったからだ。霊り草になっているのが、大隈を襲った「爆破襲撃事件」である。
大隈は52歳のとき、外務大臣として、 幕末に結ばれた不平等条約の改正に力を尽くしていた。 しかし、何かをなすときには、 必ずそのことに不満を持つ人間も現れるものである。1889年、 大隈が乗った馬車が外務省の門前にさしかかったときのことだ。 フロックコートに身をつつんだ男が、 馬車に向かって爆弾を投げつけた。男は、 とある政治結社の構成員、 来島恒喜である。
「ドン!」大きな爆発音とともに、馬車の一部が損傷。大隈は、 一命こそとりとめたものの、 右足の骨がくだけるという重傷を負った。かけつけた側近に、 大隈はこう言った。
「ほかの人はよろしいかね。わが輩の足は駄目じゃ、 ほかは大丈夫だ」
他人のことを心配している場合ではなく、 大隈は右足切断の手術を受けることになる。だが、 大隈は片足を失っても、犯人をうらむことはなかったという。
「私は犯人を決してうらんではいない。 きっと彼も国の将来を憂えての行動だったのだろう。その勇気たるや感心するほかない。なにより、 爆弾ごときでひるむような私ではない」
そう犯人の来島は犯行後、自ら命を絶っているが、大隈は、 来島の葬儀に香典を持たせて側近を参列させたうえ、 のちには追悼演説まで行ったという。 自分の命を奪おうとした相手にその寛容さには驚くばかりである。
たくさて、切断された右足はどうなったかというと、 いうと、アルコール漬けにして、大隈がしば、 宅で保管していた。大隈は、 自宅を訪れた人にそれを見せていたというが、 見せられた人はどうリアクションすればよいか、困ったことだろう。
そんな不屈の精神を持つ大隈にも、 どうしても克服できないコンプレックスがあった。 は「字を書くこと」である。
きっかけは、学生時代にある。クラスに字のうまい友人がいて、 大隈はどうがんばっその友だちよりもうまい字を書くことができな かった。そのことが悔しくて、 大隈はそれ以来文字を書くことを止めてしまったのだ。
実際に、大隈が残した文書といえば、17歳ごろに寄せ書きした自作の漢詩と、大日本帝国憲法の署名くらいである。大隈が外務省にいたとき、大隈はますずりったく文字を書かないために、硯が未使用な状態で、 机に置かれたままだった。
文書が必要なときは、大隈は言葉で指示して、誰かに書かせていた。大隈に言われた通りに筆記すれば、立派な文章になったという。 右足をなくしても、文字を書かなくても、政治家にとって最も大切な情熱さえあれば、政治活動はできる。大隈はそう考えていたのかもしれない。
ある一面において、欠点や苦手な部分、もしくは障害があっても、それは、その人の魅力を奪うことにはならない。大隈の生き様は、そのことをよく伝えてくれている。
「徳川光圀 こんな「黄門さま」は嫌だ!」「ガウディ タクシーに乗せてもらえず死亡」「一休宗純 自由すぎる僧侶」「陶淵明 誤解された「歳月人を待たず」」などなど。
勇気づけられるなあ。歴史の教科書にしたいね。オススメです。(=^・^=)

