「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「野球ボールに夢をのせて スポーツ産業とスポーツ振興につくした水野利八」(佐藤一美)

今年7月のがっちりマンデー!!」の特集は、売上げが過去最高の2297億円!絶好調の「ミズノ」。びっくりしたのはスポーツで培った技術でさまざまな素材を開発しているということ。ほー!φ(..)メモメモ

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こりや、創業者の水野利八のことを知りたい、知り尽くしたい!ということで読んだのがこの本。

 

「スポーツ用品メーカー、ミズノの創業者水野利八の、事業とスポーツ振興にかけた一生を描くノンフィクション物語。水野利八は若き日、京都で三校 (今の京都大学) 野球部の試合を見て野球にとりつかれ、スポーツ用品の製造販売をするかたわら、実業団や学生の野球大会を主催するなど、広くスポーツの普及にとりくんだ。その学生野球が、今の甲子園での高校野球大会につながっている。また水野利八は、経営者としても、スポーツ産業を「聖業」と名づけ、品質勝負のフェアプレーを信条とした。戦後の物資不足時代にもヤミの原材料には手を出さず、裏取引をきらった。社員にも酒席接待、贈り物はしない、供応をうけないなど徹底し、ケチケチ商法ともいわれたが、その評価は死後に一変する。持ち株すべて (昭和46年、当時のお金で26億円)を、スポーツ振興にあてるよう遺言していたのである。筋の通った経営姿勢をつらぬいたその一生とは!?」そのエッセンスを紹介しよう。

 
水野利八は、スポーツ用品の一大メーカー「ミズノ株式会社」の創業者です。若いころはじめて見た野球に魅せられて、野球の硬式ボールの規格づくりや運動用具の生産、品質改良につとめ実業団野球大会や学生野球大会などを開催してスポーツの発展につくしました。高校球児のあこがれ「甲子園野球大会」発足への道をつけた水野利八の、野球への夢とスポーツ産業にかけた情熱をたどってみましょう。
 

「おお、やっとる、やっとる。これが野球ちゅうもんか」しばらく見ているうちに、ルールもだんだんわかって、わくわくしてきました。いっぺんに野球のとりこになった仁吉は、ひまをみつけては三高の試合を見にグラウンドへ通うようになりました。
 
・金沢の陸軍病院で、五か月の入院生活を送らなければなりませんでした。静養がなによりの薬です。日ごとに元気をとりもどしていった仁吉は、ベッドの上で読書をはじめながら考えました。「世の中には、まだまだ勉強しなきゃならんことが、たくさんあるなあ」
 
・軍隊生活で、商売人とはちがう戦友たちから、さまざまな影響をうけたのです。「もっと勉強して、将来は大実業家になろう!」病院でむかえた元旦の日記にしるして、猛勉強にとりかかりました。午前は経済、作文、算数、新聞を毎50分勉学。午後は経済、地理、算数を毎50分……。といったように、病気療養中だというのに、すさまじい勉強がつづきました。そんななかで、「退院したら自分の店を持ちたい」という思いが強くなりました。
 
・病気で長い入院生活を経験した仁吉は、健康にはとくに気をくばりました。早寝早起きをして、冷水まさつにはげみました。「スポーツマンたちは、健康に気をつけているにちがいないな」 そう考えた仁吉は、スポーツ選手に、どうやって体をきたえているのか」を聞いてまわりました。何度もしつこく聞いているうちに、スポーツ選手たちも、「水野はんは、おもろいお人やなあ。店にもよらせてもらいますわ」ということになって、店に顔をだすようになりました。
 
・このころ、「水野兄弟商会」は、新しい店を買って、二人の店員もおけるように なっていました。店にくるようになった選手たちから、思いがけない注文がありました。
 
「わたしの体にあった運動服をつくってもらえまへんか」
 
「よい生地で、ぴったりのをつくりましょ」織物問屋で働いていた仁吉は、よい生地をえらぶ、たしかな目を持っていました。かねてから目をつけていた腕のたしかな職人にたのんで、服をつくらせました。できあがった運動服を着た選手は、おおよろこびです。「自分の体にあった運動服は、着ごこちがええなあ」このオーダーメードの運動服のうわさは、たちまちひろまって、注文がまいこむようになりました。いまのスポーツウェアのはじまりです。服をぬう職人を何人か、かかえるようになったので、注文だけでなく既製の運動服をつくって売ることにしました。「運動服だけでなく、運動用品も、もっと仕入れて売るようにしよう」
 
・ 明治四三(一九一〇)年一〇月、仁吉は、芝田町の店を売って、同じ大阪市内の梅田新道に二階家を買って開店しました。二六歳のときでした。それまでより大きい店がまえで、店員を四人ふやして六人にしました。店の名も「美津濃商店」にかえました。 水野の名と出身地の美濃をあわせた名前です。「美津濃商店 運動服装部」の大きなのぼりをたて、一階のガラス戸ごしに、シャツなどの運動服を見えるようにならべました。
 
・まず、カッターシャツというシャツをつくりました。いまではワイシャツと区別しないで用いていますが、カッターシャツの名づけ親は利八なのです。野球の試合などで、「勝ったー」「勝ったー」と声をあげてよろこんでいる応援の人たちに、利八はなんども出会っていました。 「勝ったー、勝ったー、カッター、カッターシャツこれでいこう」カラーとカフスがぬいつけられた長そでのシャツを、カッターシャツと名づけて売ってみたところ、学生たちのあいだで評判になりました。
 
ポロシャツ、カッターシャツ、ボストンバッグなど、いまではふつうに使われている名前が、大正時代に利八によって名づけられたものだったとは、驚きです。オーバースエーターなどのアイデア商品はつぎつぎにヒットして、大阪で美津濃といえば、「ああ、あの運動服の」といわれるほどになりました。
 

・八月にアメリカのロサンゼルスで開かれた全米水上選手権で、古橋広之進、五〇〇、八〇〇、四〇〇メートルの自由形世界新記録をだしたのです。古橋には、フジヤマのトビウオというニックネームがつけられました。日本のスポーツが世界にはばたいた瞬間でした「古橋選手は、美津濃の競泳パンツをはいて泳いでいるはずや」利八たちが、二重のよろこびにつつまれていたことは、いうまでもありません。

スポーツ用品をつくりたくても材料が不足しているときでしたが、利八は、将来にそなえて「技術研究部」をもうけました。理学部出身の健次郎が相談役をつとめした。それはスポーツ用品をつくる上で、接着剤やプラスチック加工、製品構造の研究に、大きな力になっていきました。

 
スゴイなあ。甲子園の高校野球のきっかけをつくったなんて!!!こりゃ他のスポーツメーカーとは格が違うわっ!! 野球殿堂博物館に行かなきゃ。オススメです。(^^)