1998年発行だから、26年前かあ。遠い昔だなあ。小田さんは、オフコース時代から、中1のときくらいからだから、もう47年くらいファンだわ。長いなあー!♪
「オフコース〜ソロミュージシャンへと順風満帆な活動を続けてきたように見える小田和正。だが、そこには迷い苦しんだ数々の選択が隠されていた-。51歳を迎えた今、彼が語る真実のすべて」そのエッセンスを紹介しよう。
・生きていくってことは、甚だファジーだけど、
・「ぶんこ」は、彼にとって、横浜といっても、 特別な場所なのだ。
・「(賛美歌を聞いて)「途中で、変わった響きが出てくる。 なんだろう?この気持ちよさは?って興奮したよ。 歌っててゾクゾクした。だから、俺の書く旋律は、どうしても、 教会音楽的なところに行きたがる。それはきっと、 この時の影響なんだろう。どうしてもカデンツ(ドミソ、 ファラド、ソシレの三和音)が基調になる、というかm・・・・」
・69年のライト・ミュージック・コンテスト。“竹田の子守歌” を歌いはじめた途端、ぶっとんだ。リードをとる潤ちゃん(山本) には、本当に驚いた。こんなコが日本のどこにいたんだって、 もうそんな感じだった。そして、その日の“赤い鳥”は、 生涯最高の演奏をしたんじゃないかな?オフコースは2位。 この事実は、その後もずっとひきずっていたよ。五人と三人では、 ハーモニーがそもそも違ったし。もう“ これ乗り越えないと人格ないよな”ってくらいにさ。 ここでのNOが、のちの大きなYESを生むことになるわけだ。
・地主道夫は、卒業とともに、建築会社に就職した。小田は、 音楽に打ちのめされて金沢文庫駅の実家に戻った。 音楽のことが頭から離れなかった。時間が欲しかった。そうだ、 大学院に進めばいい!音楽を続けたかったからこそ、 大学院に行った。ヤスとも話して、このままもう少し、 アマチュアで音楽やろうって。
・こんなに上手にコピーしているのに、 なんでこんなに受けないんだろう? 俺はコーラスにこだわっていて、 テンション系のコードも駆使した駆け引きのあるコーラスを巧みに 操れたなら、日本制覇なんて簡単だと思ってたんだ。 そもそもそういう考えからからして、受けなかった。 オフコースのステージは、 MCが盛り上がらないことで有名になる。
・小田がプロになったこの時代のフォークの大スターは岡林信康。 「私たちの望むものは」……でも、俺は自分が選んだ、 音楽をやっているしなあ……。「自由への長い旅」……でも俺、 自由だし……。「何か、問題意識がないと歌が作れない。 そんな風潮だったんだよ。若者の、 やり場のない何かを抱えてないと、歌を作ってはいけない。 みたいになっていた」
・小田がオリジナルを作り始める上でネックになったのは、 歌詞だった。「自分は何を考えているのか。 問題意識は何なのかっていっても、漠然としている。 歌詞作るっていっても、なかなか出来やしない。 これを訴えたい、というのもない。その時“ 日記にヒントはないだろうか?”って思った。 日記の中に散文的な武運もあって、“冬と夏の間”みたいな、 そんな言葉が見つかった。“です、ます”は当時の流行りでさ。 そして「僕の贈りもの」は、こうして誕生した。 これがはじめてのオリジナルだったな」
・小田は曲作りに関して、不思議な感覚を得る。それは「 自分じゃやらないだろうということを、 無理やり自分に引き寄せてみた時」に起こる。 自分に引き寄せて演じてみせる。そうやって作った歌は、 のちのち代表作になっている。そこが不思議なのさ。
・愛は断続で、風は持続。彼の楽曲の二つのキーワード。
「卒論・建築への訣別(私的建築観)」はスゴイなあ。大学院まで出て建築家の道を訣別するんだから。(^o^)