「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「京都ぎらい」(井上章一)

新潟生まれ、小田原育ち、横浜在住、現在、福岡に長期滞在中。年齢を重ねるたびにどの街も好きになっているが、そうだ!一時、十代の頃は、住んでいる小田原が好きになれないということがあったなあ。そんな感覚なのだろうか、京都生まれで京都で暮らす著者が「京都ぎらい」を名言するのは。(・∀・)
 
 
あこがれを集める歴史の都・京都!そんな古都を「きらい」と明言するのは、京都育ちで、ずっと京都に住んでいる著者だ。千年積もった洛中人の毒や、坊さんと舞子さんとのコラボレーションなど、「こんなん書いてええのんか?」という衝撃の新京都論」
そのエッセンスを紹介しよう。
 
・いきなりこういう書き出しもどうかと思うが、京都にはいやなところがある。私は京都市に生まれそだったが、二十歳をすぎたころから、つくづくそう思い知った。おかげで今も、この街のことは好きになりきれないでいるあいかわらず、京都の近くでくらしているのに。
 
・私が生まれたのは、右京区の花園、妙心寺のすぐ南側である。そして五歳の時に、同じ右京区の嵯峨、清凉寺釈迦堂の西側へひっこした。嵯峨の子としてそだったという、強い自意識がある。だが、京都の街中、洛中とよばれるところでくらす人々なら、すぐに了解するだろう。井上は嵯峨育ちだったのか。京都の人じゃなかったんだな、と。私は彼らから田舎者よばわりをされ、さげすまされてきた嵯峨の子にほかならない。
 
・今は宇治に居をかまえる、宇治市民である。宇治の分際で、京都を名のるな。身の程を、わきまえよ。そんな京都人たちの怒号を耳にして、私は心にちかっている。金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい嵯峨そだちで宇治在住、洛外の民として自分の生涯はおえよう、と。
 
・とにかく、私は自分のことを、京都人だと思っていない私が京都でよそものあるかいをされる度合いは、東京の雑誌記者とかわらないのだから。
 
・長じて出会った洛中の人々は、よってたかってこれをうちこわす。祇園祭は洛中の、町衆がいとなむ祭であり、嵯峨の田舎者なんかはかかわれない。お前たちがくらす洛外と洛中のあいだには、深くて暗い溝がある。肝に銘じておけ、というように。
 
 
宴席で芸を披露して接待につとめるのは、もともと男の仕事だとされていた。江戸でも京大坂でも、彼らは芸のある者=芸者と呼ばれている。武芸の達人を武芸者というが、それと同じような呼称として、この言葉はなりたった。一八世紀のなかごろには、その宴席へ女たちもはべるようになる。上方では、新しく登場した彼女らを、芸者(男)と区別するために、芸子とよびだした。そして、男である芸者は事実上絶滅し、今は女の芸子だけがのこっている。だから、芸者と言えば、もう見られなくなった、歴史上の男たちをさすことになる。いっぽう、江戸では新規参入の女たちを。女の芸者=女芸者命名した。旧来の芸者(男)には、男芸者という名をあてている。その男芸者はしだいにすたれ、芸者は女の芸者たちをさす言葉になったのである。

 

わかるなあ。ウチの実家から小田原駅周辺に行くときには「小田原に行く!」って言ってたもんね。新しい京都論。オススメです。(・∀・)