「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「手掘り日本史」(司馬遼太郎)

 

 

国民的作家といもいうべきの司馬遼太郎。じつはあまり読んだことがないんだよね。この齢になってあらためて歴史に興味を持ち始めて手にとったのがこの本。
 
日本人の底の底には無思想という思想、簡単に言ってしまうと美意識があるのではないかと思う――日本人が初めて持った歴史観、庶民の風土、「手ざわり」感覚で受け止める伝統的美人、義経という人気者、幕末三百藩の自然人格。歴史小説に新しい地平を開いた国民的作家が、自らの発想の原点を解き明かす。評論家、江藤文夫による司馬への聞き書きに、さらに司馬自身が手を加えて完成した、対談ともインタビューともエッセイともひと味違う、不思議な読み応えの一冊」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・だいたい私は小説家のくせに、自分を語るのがヘタなのです。ひるがえって、自分を語るのがヘタな人間が、客観小説とか、他人を素材にする小説を書くんじゃないでしょうか。
 
・長距離トラックの運転手がよく言うことですが、下関を出発して山陽道を走り続け大阪にはいってくると、気がゆるむ、という。静岡をすぎるころから、これから東京に入るんだということで非常に緊張するそうです。つまり東京は、ひとを緊張させる何かをもっているのでしょう。
 
城下町であった東京と、町人の町であった大阪とでは、フライパンにしみついた油のちがいがあって、それが東京人・大阪人それぞれの体臭になっているこれはなかなか抜けきれるものではないようですね。
 
・私は大阪弁という、方言地帯に住んでいます。方言生活者です。方言のよさというのは、根から生えた自然のことばだということです、その点で、人間の感情をあらわすのに都合がよろしい。そのかわり方言では学問を叙述することができません。また物事を論理的に考えていくこともできない。こういう面での用を足すために私たち日本人は、標準語をあわせ持っています。
 
・ひとつのことを書くときに、その人間の顔だとか、その人間の立っている場所だとか、そういうものが目の前に浮かんでこないと、なかなか書けないのです。
 
・参議の耕世メンバーのうち、悲劇的な最期を遂げるのは、西郷隆盛江藤新平、ついで暗殺される大久保利通です。この3人に共通していることは、“体制”作りというものが大好きだということですね。つまり、日本をどうするか、ということを身も世もなく考えつづけるという人たちですね。あとの人たちは処理家ですね。誰かが作ったものを処理していく。体制製造家が斃(たお)れて、処理家が成功の果実を食うんでしょうか。結局、最後に果実を食うのは、伊藤博文とか山県有朋とかの処理家でしょう。
 
西洋人というのは歴史的にそうですが、練度をもとめるよりも、それよりもスグ道具や機械に変えてしまうそれがヨーロッパ文明を興したわけだし、日本文化が明治まで停滞したのは、道具をさほど重んじなかったからでしょう。いまは大工さんでも電気のキリやノコギリなどがあって、技能の練度が必要とされなくなった。ここから日本人の変質が始まっていたのではないかと思います。このことを踏まえないと、今日の日本人がとらえにくいですね。
 
福岡にきて、新潟、小田原、横浜に次ぐ、第4の故郷になりそう。九州の歴史と風土をあらためてこの地の風に当たりながら探ってみたい。オススメです。(・∀・)