酒場のギター弾き 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「坂の上の雲(四)」(司馬遼太郎)

戦争のやり方も変わってきているよね。陸軍・海軍・空軍、そしていまでサイバー(攻撃)と。この本を読むと昔の戦争のあり方とやり方が鮮明に書かれている。そして明治時代に生きた先達たちの熱い想いが伝わってくる。
 
 
「明治三十七年二月、日露は戦端を開いた。豊富な兵力を持つ大国に挑んだ、戦費もろくに調達できぬ小国。少将秋山好古の属する第二軍は遼東半島に上陸した直後から、苦戦の連続であった。また連合艦隊の参謀・少佐真之も堅い砲台群でよろわれた旅順港に潜む敵艦隊に苦慮を重ねる。緒戦から予断を許さない状況が現出した」名著の第四巻!♪そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・児玉らの手落ちもあった。この戦闘でどのくらいの断薬が必要かという計算が不確かで、その輸送法も確立させていなかった。このため第二軍はつねに補給になやんだ。兵器弾薬も、ロシア軍のそれにくらべてよほど粗悪であることがわかった。小銃はいいとしても、大砲の性能がわるかった。その射程と発射速度の点で、ロシア砲よりも三割方能力が低かったであろう。そのうえ、砲弾に不発弾が多かった。
 
・ドイツ陸軍きっての天才的作戦家メッケル。「日本には児玉がいる。かれが存在するかぎり日本陸軍の勝利はまちがいないドイツやフランスの将校も研究心が旺盛であるが、しかし日本の将校にくらべれあとてもくらべものにならない。日本将校は自分の軍事的知識の発達については驚嘆すべき努力家である。さらにかれら日本軍の特性はすこしも死をおそれないことで、これは戦勝の第一要素とすべきであろう」。
 
日本人の計画感覚のなかに、補給という感覚が欠如しているのかもしれなかった。遼陽大会戦のための補給どころか、現状において兵隊の食糧さえ欠乏していた。補給は兵站へいたん)のしごとである。食糧が大連湾に陸揚げされても、それを前線へはこぶ方法があらかじめ研究されていなかった。鉄道はあっても、機関車がなかった。ただロシア軍が遺棄した貨車が三百輛ばかりあったため、これに物資を積み、兵隊が貨車の前後左右をかためて人力で押した。さらにシナの駄馬をつかった。シナ風の荷駄鞍をつけて米俵などを背負わせたがシナ馬は背が弱いためほとんどの馬が鞍傷をおこし、結局はあまり役立たなかった。このため、前線はいよいよ餓えた。
 
・日本の砲弾は、下瀬雅允(まさちか)という無名の海軍技師の発明したいわゆる下瀬火薬が詰められている。この当時、世界でこれほど強力な火薬はなかったその爆発によって生ずる気量は普通の砲火薬の二倍半であったが、実際の力はいっそう強猛で、ほとんど三倍半であった。しかもこれを詰めた日本の砲弾は、水に衝突しただけで炸裂した。巨大水柱が、海をわきあげさせながら、こげ茶色の煙と炎をともなってあがる光景は、異様というほかなかった。
 
日本の砲弾は、日清戦争の経験により、まず敵艦を沈めるよりもその戦闘力をうばうことに主眼がおかれているという、世界の海軍常識かがいえばふしぎなものであった
 
(なにしろ、アメリカ人というのは跳ねっかえりなのだ。ヨーロッパからの流れ者か、その子孫のあつまりだから、本来、いのちがけの競技がすきなのだ)と真之はおもうのである。一方、日本人は忠実できめられたことをよく守るために、大観の乗務員にはむいている。上官の五体が飛び、同僚がひきさかれて倒れようとも、水平たちは持ち場を離れようとはしない。主力艦隊の強みは、たしかにそういうところにあった。
 
・ロシア人は戦争は人間個々がするものだとは思っておらず、陸軍なら軍隊、海軍なら軍艦がするものだとおもっている。このため軍艦がやぶれると、もはや軍人としての自分のつとめはおわったものと思い、それ以上の奮闘をするものは、きわめてまれな例外をのぞいてはいない。日本人は、軍隊がやぶれ軍艦が破損しても、一兵にいたるまで呼吸のあるうちは闘うという心をもっていた勝敗は両軍のこの観念の差からうまれたものらしい。
 
・物の量からみればこの戦争は、日本にとって勝ち目がほとんどなかったが、わずかに有利な点は下瀬火薬にかかっていたといえるだろう。

 

いいねえ。これからどうなるんだろう。次巻が楽しみです。オススメです。(^_^)