二十代後半だからもう三十年くらい前、独身のころ、ワタシはテレビよりもラジオを聞いていた。毎日3時間タイマーでカセットテープに録音して、帰宅してから聞いていたのが、20年続いた伝説の大長寿ラジオ番組
『吉田照美のやる気MANMAN』。
吉田照美、小俣雅子さんの名物コーナー
「お助けマン(ようかんマン)コーナー」で大好きだったのが、
「沼尾ひろ子」さん。
17年間木曜日を担当し、マイクを持って街頭に出て、
生中継をしていた。
どれくらい好きだったのかというと、そのときのベスト盤を自分で編集し、いまだにカセットテープに保存してあるくらいだ。いつか
youtubeに載せよう!
その後、TBS
『ブロードキャスター』の「お父さんのためのワイドショー講座」「7days」を勤めた。それが数十年経って、知り合いを通して
ご本人とお会いできるなんて!
人生って夢が実現するね!大感激だったっ!同い年だった!その沼尾さんが失語症だったなんて、まったく知らなかった!!!
「なぜ言葉が出ないの?話が出来ないの?42歳の若さを襲った脳梗塞。よりにもよってナレーターの彼女は言語野を犯され失語症に。復帰までの記録に家族や担当医のコメントを交えた異色のドキュメント」そのエッセンスを紹介しよう。
・2006年42歳で脳梗塞に倒れ、命は助かったが、言語中枢を司る左脳を患い、失語症に陥る。原稿を読むことを生業とし、そして何よりしゃべることが大好きな私がよりによって失語症。その事実を知ったときの苦しみは、簡単に言葉で言い表すことはできません。大好きだった仕事ができないと知った瞬間から、ただ呼吸して生きながらえているだけの空虚な時間が過ぎていったのです。
99.9%の不可能を可能にした体験で、後遺症に苦しむ患者さんとどのように接すれば前に進んで行けるか。明るく生きることの大切さ
・気が付くと病室のベッドの上にいた。まだ、ぼんやりしている。そうだ、夫や妹に、急に具合が悪くなったことを知らせておこう。サイドテーブルのケータイを取り上げる。えーっと……・あれっ?どうしたんだろう。メールがうまく打てない。伝えたいことがるのに、頭の中で文章を組み立てることができない。ケータイのキーはちゃんと見えているけれど、文字が拾えない。それでも、とにかく指を動かしてみる。画面に出るのは、いろんな文字と記号がメチャクチャに入り混じったメール。おかしい。でも、何度やっても同じ。メールが打てない。このままでいいや、とにかく送ろう。伝えたいことはわかってくれるだろう。そう思って、メチャクチャなメールを夫と妹に送信した。このあと、私の記憶は途絶えた。後日、どんなに思い出そうとしても思い出せない空白ばかりの数日間が、ここからスタートした。
・「お名前は?」「…………」「な・ま・え・は・な・ん・で・す・か?」「え〜っと、え〜っと……。ひ…ろ…こ…」「ママ……これ……、なんてよむの……」「沼尾って書いてあるよ」「ぬ…ま…お?」
・「私ね、早く戻ってね、テレビの6チャンネルでね……えーっと、えーっと。私の仕事は……。ママ、なんて言うんだっけ?」「ナレーターでしょう」「な・れー・たー?」あんなに好きな自分の仕事の名称もわからないようでした。
・不思議だった。みんなに言ってることがわからない。ゆっくり話しかけられると、わかる言葉もあるし、わからない言葉もある。でも、数人が普通のスピードで会話しているのをそばで聞いている場合は、まったくわからない。おまけに、自分の名前が言えない、固有名詞が思い出せない、思っていることがうまく伝えられれない。メールが打てない。テレビでドラマを観ていても内容が少しもわからない。しかし、つらいとも、悲しいとも、苦しいとも思わなかった。そのときの私は、自分がどういう状況にあるのか理解できていなかったのだ。「わからない」ということが、その結果、どんな現実を引き寄せるのか、まだ理解できなかった。うまく言葉が出てこない。いつ治るかわからない。これが脳梗塞……。
・失語症についてははよくわからない。言葉を仕事とする者が、失語症を患うなんて……。一気に底無しの真っ暗闇に突き落とされた。
・私の闘いは、後遺症が相手だと思ってきた。しかし、そうではなかった。自分自身との闘いだったのだ。自分の状態を正面から強さ、「もし言葉が元に戻らなかったら」という恐怖心と闘うパワー。これから進む道を選ぶ勇気、そして未来を信じる姿勢。いずれも、簡単には持つことができない。でも、あきらめずに、もがき苦しみながら闘ってきた。克服すべき壁は私の中にあったのだ。
「もっとも効果的なリハビリを発見!」「キュウリがトマト、は“錯語”という症状」「ナレーター復帰に向けて」など。
すごい経験だね。多くの方を勇気づけられるね。いいなあ、沼尾さん、またお会いしたいなあ。超オススメです。(・∀・)