「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「高田渡に会いに行く」(なぎら健壱)

中学生の頃、昭和50年代前半、フォークに目覚めた。いろんな歌をさかのぼって聞いていた中にひときわ異彩を放ったのが高田渡。『自衛隊に入ろう』はもとより『汽車が田舎を通るそのとき』や『三億円強奪事件の唄』には驚いた!迷演奏だよね〜。(・∀・)

 

「若者たちよ!!かつて高田渡というフォーク・シンガーがいたことは覚えておいた方がいい。フォーク界の特別天然記念物絶滅危惧種と呼ばれた伝説のヒト、高田渡
その謎に満ちた生態(!?)真実に迫る。(坂崎幸之助

 

高田渡(誕生日は1月1日ではなく、1948.12..31)氏が亡くなったのは、2005年の4月16日(56歳)のこと。その日、私は53歳を迎えた。要するに私の誕生日に亡くなってしまったのである。「なぎら君、僕の命日を忘れないでくれよ」と言われているような、妙な気持ちにさせられるのだが、忘れることはないであろう。
 
・なんと私の母(旧姓・高田)の弟の名前が、高田渡なのである。若くして亡くなってしまったが、私の叔父が高田渡なのである。
 
高田渡の2ndアルバム『汽車が田舎を通るそのとき』は、高田が曲の合間に女性とお話しながら歌うという形式をとっている。実は高田がこの形式にこだったのには理由がある。高田が憧れた歌い手に、ウディ・ガスリー実は、このような形式で録音をしているのである。『Woody Guthrie / Library Of Congress Recordings』という貴重な音源がそれである。オリジナルの詞にオリジナルの曲をつけるということは、このアルバムが最初で最後である。不思議で仕方ないのだが、なぜこの後、高田は自分の詩を詞にすることがなかったのだろうか?
 
・特筆すべきことは、高田はリバーブやエコーなどの艶をつけることを好まないということを頭に置いてもらいたい。その歌唱(録音)が、高田独特の唱法となっている。つまり側で生歌を聴いているような臨場感を醸し出しているのである。
 
・(高田漣)「親父の場合、帰ってこないときは一日とかじゃないんですよ。有名な話ですけど、たばこを買いに行ってくるって言って、そのまま何日の前ってこなくて、やっと帰ってきたと思ったら、うちの母に「あんた、たばこは?」っ言われて「忘れた」」(笑)親父の行きつけの店がだいたい3軒あるんですよ。『いせや』『のろ』『ハバナムーン』その3軒をどこも勘定せずに、途中で抜けてはこっちに行って、こっちに行っては……ってうろちょろしていたんです。“魔の三角州”って呼んでいたんですけど。(笑)
 
冗談みたいな話ですけど、携帯電話とか持っていなかったから、仕事の電話とか『いせや』に連絡がきてましたからね(笑)おやじさんが「渡さん!仕事の電話だよ!」って。友恵さんが、仕事の電話がくると「いま、『いせや』にいるはずだから電話してみて」とか言ってたんでしょうね。あげくには『いせや』からお中元とかお歳暮がきてましたからね。どんなお付き合いなんだっていう(笑)。
 
うちの親父は、飲兵衛だと思われがちですけど、酔っているだけで飲んでいる量は大して多くないんですよ。基本的にはお酒は弱い人だったんだと思う。だからああいう風になったのかなと。
 
・フォークギターを手に入れるのは17歳のとき、1977年11月8日のとで、ヤマハのFG-150だったと回想している。吉祥寺の『ヒワタリ』という楽器屋で1万6000円の値段を2割引で買ったと書いている、初めてギターを手にしてから2年あまりで最初のアルバムが作られている。そして同年には2枚めのアルバムが発売される
 
・(高田渡「歌だけが全てでは無い。歌は思想ではありません。歌わないで済むことが一番いいのです」
 
 
『三億円強奪事件の唄』『ガリガリ君の値上げ』。いいなあ。こういう破天荒な生き方に憧れる。また聴きたくなりました。オススメです。(・∀・)