このタイトルが気になるよね。あの名作の『罪と罰』を読むんじゃなくて、読まない!といいながら中身を想像するという読書会!なんじゃそりゃ!(笑)(・∀・)
・とある宴席の片隅で、ドストエフスキーの『罪と罰』 を読んだことがあるか?という話になった。「ない」「ないです」 「文庫本は持ってるけど」「読んでない」 居合わせた四人が四人とも首を横に振った。四人とも「 じつはほとんど何も知りません」と白状するしかなかった。
・つまり「読んだことはないけれど、なんとなく知ってる」 人たちと、「読んだことはあるけれど、よく覚えていない」 人たちの認識に、さほど大差はないのだった。では、いったい「 読む」とは、どういうことなのか。何をもって、「読んだ」 と云い得るのかー。考えあぐねるうちに、妙なことを思いついた。 「読んだ」と「読んでない」に大差がないのなら、 読まずに読書会をひらくことが出来るのではないか。すなわち『 罪と罰』という小説を読まずに『罪と罰』 について徹底的に話し合うことができるのではないか。
・四人とも、遊びではあるが、至って本気であり、こういう本を「 つくろう」と決起した日から読書会の当日まで、『罪と罰』 に関する情報をことごとく遠ざけてきた。ただしひとつだけ「 情報解禁」が許され、読書会の当日、『罪と罰』 の最初のページと最後のページを岸本さんが英訳本から翻訳したも のが配布された。鯛焼きで云えば、まずは頭と尻尾だけを食べて、 あんこの詰まった胴体の味を想像してみようという試みである。
・やっぱりドストは文豪で天才だ!そして思ったのは「読む」 はいつからはじまるものなのだろう、ということです。小説は「 読み終わったら終り」ではない。余韻を楽しんだり「 あのシーンで登場人物はどんな思いだったのかな」と想像したり。 あらすじや人物名を忘れてしまっても、 ふとした拍子に細部がよみがえり、 何度も何度も脳内で反芻する作品もあります。「読む」 という行為を終え、 作品が心のなかに入ってきてからがむしろ本番というか、 するめのようにいつまでも噛んで楽しめる。 一冊の本を読むという行いは、ある意味では、 そのひとが死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うので す。
はあ〜!!!面白い!!!ラスコーリニコフを「ラスコ」って呼ぶなんて!おかしすぎる!軽すぎるっ!!!このシリーズ、使えるなあ。続編が欲しいなあ。超オススメです。(・∀・)