「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「『罪と罰』を読まない」(岸本佐知子 三浦しをん 吉田篤弘 吉田浩美)

 

このタイトルが気になるよね。あの名作の『罪と罰』を読むんじゃなくて、読まない!といいながら中身を想像するという読書会!なんじゃそりゃ!(笑)(・∀・)

 

読まずに読む!ドストエフスキー罪と罰を読んだことのない四人が、果敢かつ無謀に挑んだ「読まない」読書会」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・とある宴席の片隅で、ドストエフスキーの『罪と罰を読んだことがあるか?という話になった。「ない」「ないです」「文庫本は持ってるけど」「読んでない」居合わせた四人が四人とも首を横に振った。四人ともじつはほとんど何も知りません」と白状するしかなかった。
 
つまり「読んだことはないけれど、なんとなく知ってる」人たちと、「読んだことはあるけれど、よく覚えていない」人たちの認識に、さほど大差はないのだった。では、いったい「読む」とは、どういうことなのか。何をもって、「読んだ」と云い得るのかー。考えあぐねるうちに、妙なことを思いついた。「読んだ」と「読んでない」に大差がないのなら、読まずに読書会をひらくことが出来るのではないか。すなわち罪と罰』という小説を読まずに『罪と罰について徹底的に話し合うことができるのではないか。
 
・四人とも、遊びではあるが、至って本気であり、こういう本を「つくろう」と決起した日から読書会の当日まで、罪と罰に関する情報をことごとく遠ざけてきた。ただしひとつだけ「情報解禁」が許され、読書会の当日、『罪と罰の最初のページと最後のページを岸本さんが英訳本から翻訳したものが配布された。鯛焼きで云えば、まずは頭と尻尾だけを食べて、あんこの詰まった胴体の味を想像してみようという試みである。
 
「生年が1821年、亡くなったのが1881年江戸時代に生まれて、明治維新のあとまで生きていた」
 
やっぱりドストは文豪で天才だ!そして思ったのは「読む」はいつからはじまるものなのだろう、ということです。小説は「読み終わったら終り」ではない。余韻を楽しんだり「あのシーンで登場人物はどんな思いだったのかな」と想像したり。あらすじや人物名を忘れてしまっても、ふとした拍子に細部がよみがえり、何度も何度も脳内で反芻する作品もあります。「読む」という行為を終え、作品が心のなかに入ってきてからがむしろ本番というか、するめのようにいつまでも噛んで楽しめる。一冊の本を読むという行いは、ある意味では、そのひとが死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うのです。

 

はあ〜!!!面白い!!!ラスコーリニコフを「ラスコ」って呼ぶなんて!おかしすぎる!軽すぎるっ!!!このシリーズ、使えるなあ。続編が欲しいなあ。超オススメです。(・∀・)