酒場のギター弾き 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ミチクサ先生(上)」(伊集院静)

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以前から読みたかった本、ようやく読みました!『ノボさん』の続編だよね。夏目漱石(金之助)の青春だよ!明治初期のころって「小説」という言葉もまだ一般的ではなく、太陰暦太陽暦になった時代。まだ150年くらいだもんね。

 

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ミチクサが多いほうが、人生は面白い!てっぺんには裏から登ったって、足を滑らせたっていい。あちこちぶつかったほうが道は拓ける。夏目家の「恥かきっ子」金之助は生まれてすぐに里子に出されたり、年老いた父親にガラクタ扱いされながらも、道楽者の祖父の影響で子供ながらに寄席や芝居小屋に入り浸る。学校では異例の飛び級で頭角をあらわし、心のおもむくままにミチクサをして学校を転々とするように。その才能に気付いた兄に英語を仕込まれ、東京大学予備門に一番で合格した金之助は、そこで生涯の友となる正岡子規と運命の出逢いを果たす――。伊集院静がずっと共鳴し、いつか書きたかった夏目“漱石”金之助の青春 」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・明治二年、英語教師パーリーが開成所(のちの東京大学で初めて英語授業を始めた折、語学を“正則”、購読を“変則”と定めた。今、大助が金之助の教えているのは、大学南校で定めた韻学会話を優先する発音の体得だった。これからの外国語は、フランス語でもドイツ語でもなく、英語が主流になるというのが大助の考えだった。「陸軍にとって、今一番怖いのは清国の動きだ。その清国を操っているのは英国だ。次がどんどん大きくなってるアメリカだ。このふたつの国が使っているのが英語だ。金之助、おまえも学ぶんなら英語だ。二松学舎へ行きたいと言っていたが、それはそれでかまわんが、やはり英語は身に付けておけ。おまえの好きないろんな本がイギリスにはある」正直、金之助は英語が嫌いだった。
 
・英語は苦手と思い込んでいたから『ナショナル・リーダーズはⅡ巻で止まってしまった。ところが金之助も気づかぬうちに英語の力がついていたのである。これが若き漱石の大きなミチクサであった。漱石の若き日の一番のミチクサは、実は自分が何を学ぶべきか、何をする人を目指せばよいかという道程でのミチクサであった。二十歳になる以前に、彼ほどさまざまな学校をミチクサした人はいなかった。
 
浅草の戸田小学校を皮切りに、漢学塾にも顔を出し、“飛び級でどんどん鍼灸師、牛込、市谷学校下等小学を三級から一級卒業まで一年半、続いて上等小学八級を半年で終了。錦華学校を経て東京府第一中学校を正則七級。ここも授業のつまらなさに中退し、漢学塾二松学舎へ。たちまち三級、二級を修了した。金之助の成績優秀な面もあったが、このようなミチクサはこの時代珍しいことだった。
 
・実は金之助には、他人には言えない困った性癖がある。自分でもどうしょうもないものっだった。それは他人と打ちとけて話すことがいっさいできないことだった。緊張もするのだが、こう言うべきだということが、わかっていても口から出て来なかった。これを解消できはじめたのも、落第生という立場に立ってからだった。生きて行く上での辛苦を味わうことは人にさまざまなことを与える不思議なもので自分からすすんで話をすると相手も打ちとけてくれて、友情というものの良さがわかるようになった。
 
江戸、明治の人たちは現代人では考えられないほど健脚だった。片道二里、三里は平然と歩いた。若者は信じられない距離を話しながら、歌を歌いながら、十里(40キロメートル)をあるき通した。本郷から江ノ島までは約60キロメートル、これを、この時代の若者たちは平気で歩き通した。
 
子規がベースボールに惚れたのは、まず耳からだった。バットがボールを打った瞬間に響き渡った、カーンという打球音である。それまで聞いたことのない音色だった。次が目の中にひろがる澄んだ靑空の中を上昇して行く白球の美しさだった。そしてグラウンドに伸びる白いラインが印象的だった。そのダイヤモンドの中に配置されたユニホームを着た選手たち全員が白球湯の行方を追う……音色と色彩が子規を魅了した
 
“小説”という言葉が少しずつひろがろうとしていた。明治三年、西周が私塾「育英舎」で講じた『百学連環』で始めて小説という言葉に訳す英語をfable(寓話)とした。しかしまだ読み物としての範疇でしかなかった。明治十八年、坪内逍遥小説神髄を、発表し、近代小説の理論と方法論を説いた。これに答えるように二葉亭四迷浮雲を発表し、江戸期より続いた黄表紙や、浄瑠璃文楽に見られる文語とは一線を引いた言文一致の文体があらわれた。これを小説の基準のひとつとした頃から、“小説”の存在が一部の人たちの間で知られるようになった。この時、子規も金之助も二葉亭四迷の作品は読んでいない。耳の早い子規が、言文一致の文体のことだけを聞いていた。
 
「金之助、本を読むというのは船で海へ乗り出すようなものだ。一頁一頁、艫を漕ぐように進んでいけば、見たこともないような海の眺めが見える」
 
・「先生、“I LOVE YOU”という文はどう訳したらいいのでしょうか?」「……そうだな。“月が綺麗ですね”とでも訳しておきたまえ」
 
「旦那さま、猫に名前は付けないのですか」金之助は猫をじっと見たまま、「猫に名前などあるものか、フッフフ」と笑った。
 
・明治のこの頃までは、まだ人々が給与や、構えた住居の賃料を公言していた。それは明治以前、人々(特に侍、士族であるが)にとって石高が、自分の価値を証明するものであったことの名残りと言えよう。
 
明治にこの時代、人々は家族にしても、友人、知人においても、死別は日常のごとくであった。それ故に、現代人のように、身近な人死を必要以上に嘆いたり、残された者が戸惑ったりすることもなかった。
 
「五明楼玉秀(三遊亭遊三)」「天下の秀才・米山保三郎」「明治論壇の雄・陸羯南(くが・かつなん)」「万歳三唱のはじまり」「内国勧業博覧会」「発句類題全集」「真鍋嘉一郎」など。
 

いいなあ。漱石センセイのイメージがガラッと変わるなあ。下巻が楽しみ。超オススメです。( ・∀・)イイ!!

 

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