「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「向田邦子の末尾文トランプ」(半沢幹一)

f:id:lp6ac4:20220326061958j:plain

 
全作品と全関連本の読破を目指している向田邦子さんの本。書き出しも、セリフも、描写も、ボキャブラリーも、ストーリーも、何度読んでも深いよね。さて、この本は「末尾文」にスポットライトをあてたガイドブックなのだっ!!!(・∀・)
 
向田邦子作品の比喩や思い込みに着目した前二著に続き、本著では「最後の一文」に着目する。短編小説ならびに『父の詫び状』所収エッセイについて、簡潔に内容を紹介しつつ末尾文を引用し、しめくくりの意図を解説。読者に「カタルシス」を感じさせると評価の高い、向田邦子の末尾文がこの一冊で凝縮して味わえる」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
向田邦子の文章の切れ味については、定評のあるところですが、それがとくに際立つのは、文章最後の一文つまり末尾文ではないでしょうか。沢木耕太郎は「向田邦子のエッセイの終わり方は、この最後の瞬間にカタルシスを感じるのだ。場にさらされているカードには相互の関係はないが、最後の札が開けられたとたん、すべてのカードに脈絡がつくと評しています。これはエッセイに限らず小説にもシナリオにもあてはまることです。本書は、向田の短編小説とエッセイ(『父の詫び状』の末尾の一文にしぼって、その役割を考えたものです。
 
末尾文というのは、単に文章における最善の一文というわけではなく、文章全体にをしめくくり、かつその作品の印象を決定づけるという点において、きわめて重要な意味を持っているのです。
 
・その状態にが宅次におって、もしかしたら厚子にとっても、望ましいことだったとしたら、これほど恐ろしい結末はありません。本当に恐ろしいのは、そういう現実ではなく、その想像をさせられることのほうです。どこからか、厚子のいつもの明るく歌うような声が、悪魔の呪文のように聞こえてきませんか。(かわうそ
 
・以前の庄治なら、その煙草屋で煙草を買うときは、いつもお札を出してお釣りを貰っていました。末尾では、あえてそうせずに、ポケットに入っている小銭を探そうとしました。これは、一種の賭けだったのかもしれません。取り出した小銭が煙草代分あれば帰る。なければトミ子のマンションに寄る、という賭けです。とはいえ、寄ったところで、トミ子との先の見えている関係が今しばらくだらだらと続くだけでしょうけれど。(『だらだら坂』
 
・「ゆっくりと水を飲」むのは、自分自身の感覚で、その味を確かめてみようとしたからです。それは、ただ水の味だけでなく、今までの自分の生き方を確かめ、新たに生き直そうということでもあります。(『はめ殺し窓』
 
三角波がこの三人の関係をたとえたものであることは、作品冒頭から三羽の鳩の様子の描写や「波多野」という名字の漢字とも合わせ重ね合わさって、すぐに結び付けられます。そして三角波が立つと、船は必ず沈むのかしら」という巻子の問いに沈むとは限らないさ。やり過ごしてなんとか助かる船もあるんじゃないか」と達夫が答え、それを受け入れるか否か、巻子がためらっているところで、末尾部分の牛乳屋の登場となります。今日から牛乳二本だったですね」というのは、今日から新しい夫婦二人の暮らしが始まるということを、あらためて確認させる働きをしていると言えます。(三角波

 

いいなあ。映像が思い浮かぶなあ。また再読したくなりました。オススメです。(・∀・)

 

f:id:lp6ac4:20220326061958j:plain