昭和45年は、ワタシは6歳、小学校に上がる前年だ。そして11月といったら新潟から小田原に引っ越した年だ。そのせいなのか、三島由紀夫の自決のニュースはオンタイムで観ていない。その後、遠藤賢司の「カレーライス」といい名曲でそのことを知ることとなる。
・1970年=昭和45年は、昭和のオールスターが揃っていた年だ。昭和天皇はまだまだ元気だったし、内閣総理大臣は最長在任記録を持つ佐藤栄作、自民党幹事長は田中角栄、防衛庁長官は中曽根康弘、警察庁長官は後藤田正晴だった。最強の布陣ではないか。文学界も芸能界も、老荘青それぞれの世代にスターがいた。さらにその下にやがて芽を出す無名の青少年たちもいた。そのなかで、最前線にして最高位にある人が、突然、死んだ。
・三島由紀夫は、単なる人気作家ではなく、あの時代のスーパースターだった。「平凡パンチ」が、1967年に「現代の日本のミスター・ダンディ」は、誰かを読者投票で選んだ結果、総投票数11万1192のなかで、三島は1万9590票で堂々の一位だったのだ。二位以下は、三船敏郎、伊丹十三、石原慎太郎、加山雄三、石原裕次郎、西郷輝彦、長嶋茂雄、市川染五郎(現・松本幸四郎)、北大路欣也である。つまり当時の青年にとって、三島は映画スターやスポーツ選手よりも人気があったのだ。そういう人が「自殺」しただけで大事件だが、その死に方が、自衛隊に乗り込み、割腹し、さらに介錯された首が胴体から離れたわけだから、その衝撃度の大きさは途轍もないものだった。
・三島はクーデターの成功はまったく考えていなかった。失敗を前提として、この日の行動計画を立てた。逆に言えば、最初に自殺することが決まっており、自衛隊員に向って演説すること、さらに演説するために総監を人質にとることなどは、その後で考えれていったのだ。
・自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室のバルコニーに立つ三島の姿を目撃したという、当時16歳だった女性がいる。その日、彼女は偶然、市ヶ谷にいたのだ。ロックグループ「はっぴいえんど」が所属していた事務所、「風都市」に、その日、彼女は遊びに来ていた。そこは事務所ではあったが、半分は「はっぴいえんど」のメンバーである松本隆の書斎となっており、松本の部屋と麻雀ルームがあるみたいな感じだったと、かのjは語る。少女は、後に夫となるミュージシャンが風都市に「雀の涙ほどの月給」をもらいに行くのについて行ったらしい。「あのときのことすごく鮮烈に覚えている。あのとき、60年代のムーヴメントが終わった。「これで時代が変わるなあ」って思ったことを覚えている。あれと、あさま山荘事件(72年)でね。「時代は変わる。じゃあ、作詞家になろうかな」って。」この16歳の少女は、前年に15歳で作曲家としてもデビューする。そして、この少女がシンガーソングライターとしてデビューするのは1972年だ。荒井由実という。
・三島由紀夫は、一般的には小説家として知られていたが、作品的には、むしろ戯曲のほうが高い評価を得ていた。「三島の小説はつまらないが、戯曲にはいいものがたくさんある」と言う評論家も多い。三島の戯曲は、当然、上演を目的として書かれたものであり、彼自身が上演にも深くかかわっていた。三島事件の持つ演劇性を二十歳の玉三郎は、何気なく、本質的に見抜いている。演劇であるならば、観客が存在しなければならない。役者と観客ーそのどちらかが欠けても、演劇は存在しない。三島には、自分の一世一代(「この世で最後」という意味)の大芝居を成立させる観客がいるとの確信があったはずだ。そして、確かに、観客は存在したのだ。「11月25日」という芝居は、ほぼ全国民を観客にさせた。まさに、一世一代の大芝居だった。そして、三島由紀夫は実にいい観客に恵まれた。こんなにも多くの人の心を動かす芝居は、空前にして絶後だった。
いや〜スゴいわ。時代を感じるわ。約120名が登場する新しいドキュメントの手法だね。オススメです。(・∀・)