「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「鉄腕一代 超人投手の豪快野球人生」(稲尾和久)

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私が子どもの頃のプロ野球では20勝は珍しいものでなかった。でも今、ほとんど出ないよね。それが伝説の「神様・仏様・稲尾様」西鉄ライオンズのエース、鉄腕・稲尾和久の42勝なんて空前絶後の記録だよねー!(・∀・)
 
さてこの本。「投げるのが楽しかった。西鉄黄金時代のスーパー・エースが綴るプロ野球が真のプロ野球だった時代」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
「漁師は海を怖がってはいけない。海を自分のものにしなければダメだ」というのが父・久作の信条だった。一代の“一本釣りの漁師”兄たちはつらい職業であり漁師を嫌って次々にほかの職業を選んで家を出ていった。父にしてみれば、自分が誇りを持っている漁師を継がせるのは5人兄弟(2人姉妹)の末っ子・和久しかいないと考えたらしい。
 
・小学校の授業が終わると、私はまっすぐ別府港へ向かった。そこに、出港準備を整えた父・久作が待っている。小さな伝馬船櫓を漕いで進む。7歳か8歳の頃から櫓を漕ぐことを覚えていった。一本釣りの魚だけで生計を立てていたわが家父が釣ってきた魚をおふくろがさばき、刺身にして旅館などに売っていた。生計は大変だったようだが、そういう日々が、のちの「稲尾和久というプロ野球の投手の骨格を作る基になったと思う。人生、なにが幸いするか、わからない。
 
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」も、少年時代にしょっちゅう聞かされた父のつぶやき語録の中のひとつである。「ええか、稲尾の稲がそういう稲じゃ」
 

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西鉄ライオンズの先輩は、「オイ!24番」としか呼ばない。毎日、打者のバッティング練習相手に投げるだけの投手は単なる「記号」でしかなかったのだ。早い話、私たちは「手動式練習機」と呼ばれた。まだバッティング・マシンのない時代、私たちは「マシン」でしかなかった。全球界、どのチームでもそれが当たり前だった。
 
私の趣味?はとにかく眠ることだった休日など20時間も眠り続けたこともある。2日間ずっと布団の中にいたこともある。食事も布団の中でとった。体が、そういう睡眠を欲していたのかもしれない。
 
・投手とは、めっぽう速い球を投げることでもなければ、鋭い変化球をな投げることでもない。投手の役割とは「いかに打者に打たせないようにするか」だ。「打たれない球」とは、タイミングだ。打球のリズムをハズすことだ。タイミングをハズす球とはなんだ……と自問自答が続いた。
 
・長嶋との対決で知った大事なことは、以後ずっと私が実行するようになっていった「逆算のピッチング」である。まず「勝負球」を決める。その「勝負球」を何球目に投げるかを決め、そこから逆算していって初球なにをするか、2球目はなにを投げるかを考えて、ピッチングを組み立てていくやり方だ。
 
・昭和34年も登板数(75試合)、完投数(23)、投球回数(402回1/3)でリーグ最多を残したが、30勝しても最多勝利投手になれない防御率も1点台(1.65)なの1位になれなかった。上には上がいた。杉浦投手。38勝4敗、防御率1.40。私は、また「それを超えなければならない」と思った。
 
・私が20勝ラインに到達したとき、他の一軍ベンチ入りしている8投手合わせても19勝というシーズン。川崎監督は「すまんな。しかし、お前しかおらんのだ。ガマンしてくれ」といってくれたが、私はきついとおもったことは一度もなかった。投げることが面白く、楽しかった8月が終わったとき、勝ち星はもう30勝になっていた。
 
・その頃、マウンドの上で不思議な体験をした。マウンド上に立っている私の体を透明なカプセルが包み込んでいる。稲尾和久」がもうひとり、私の頭上の宙にいた。ピッチングに迷いが生じたとき、その“もうひとりの私”は、常に冷静に状況を観察していて適切なアドバイスをしてくれた。あれも、いったい何だったのだろう。
 
「七色の変化球」若林忠志投手。「ピッチングの最終目的とは、けっきょくは打者をアウトに打ち取ることだろう。三振も、凡フライ、打たせることも、凡ゴロもアウトだ。試合状況や打者の状態をみて、どういうアウトのとり方が一番いいのかを考えて投げる。ピッチングとは、そういうものじゃないかねぇ。ヒットになる確率の低いボール球を打たせる方法はないか。つい打者がバットを振ってしまうボール球を開発すればピッチングはうんと楽になると思うけどね、どうかね、サイちゃん」なるほど、と若林さんの発想に感心したものだった。
 
・なぜ、あのとき巨人に勝てたのか。投げ続けた、当の私自身がわからない。第7戦の終回近く、自分では球を握っているつもりなのに,マウンド上の捕手のサインをのぞきこむときポロッと球を落とした。もう、球を握るだけの握力がなかった。体力は限界にきていたはずだ。それは「気」が、「心」が動かしたというしかいいようがない。ひたすら夢中だった。夢中が無心につながった。それが球を動かした。私は、いまも、そう思っている。
 
 
「大分横綱・久作と若き双葉山」「キャッチャーからのスタート」「激痛ーカムバックー最後のタイトル」「「黒い霧事件」の真っただ中で」「離れても離れても「福岡」」「「ロッテ」と落合のことなど」「「球」を動かしたもの」など。

 

うーん……すごいなあ。なんで稲尾さんがロッテの監督になったのか、この本でわかった!42勝!!!すごすぎる!時代が違うとはいえ。プロ野球ファン必読、オススメです。(・∀・)

 

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