「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「京味物語」(野地秩嘉)

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京味物語
今年、読んだ本の中でナンバーワンが出たっ!!!これはスゴイっ!!!魂に響く。日本料理の最高峰というのはこういう世界なのだ!!!
 
「小野塚くんよ、今度『京味』に連れていくからな」ということを、ある方から何度か言われたことがあるが、結局それは叶わぬ夢となった。
 
 
「過ぎてようやく気づく。京味は、味だけでなく、店の佇まい、気遣い、動き、会話、香り、リズム、気配、すべてが日本の文化そのものだった」――阿川佐和子氏推薦! 17年にわたる取材で伝説の日本料理店「京味」料理長・西健一郎の門外不出の流儀を描き切った、唯一にして最高のノンフィクション!これぞ日本人の魂。当代きっての天才料理人は、いかにして調理場に立ち、客をもてなし、生涯を閉じたのか。秘伝のレシピも掲載」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・東京、新橋の路地にあった京味「日本料理の最高峰」そう考えていたのはわたしだけではない。名だたる食通は誰もがうなづくだろう。主人、西健一郎はミシュランのグルメガイドへの掲載をあっさりと断り、メディアへ出ることを控えた。若い頃は別として、料理番組には出ていない。
 
・亡くなる二ヶ月前、彼は包丁を持ち、カウンター越しに話しかけてきた。「もうすぐ鱧が出てきます。この頃はうちの鱧を食べて『骨が歯に当たらないおかしい。骨切りした鱧なら小骨が残っているはずなのに……ご主人、これは本物の鱧ですか』などとおっしゃる人がいるのですが、骨が歯に当たらんのは当たり前です。うちの鱧はちゃんと本当の骨切りがしてありますから」京味で食べる鱧は骨があることをまったく感じない骨切りをした鱧とはそういうものだ。「先生、うちで鱧を食べたら京都へ行かんでいい。今度、鱧の料理を何か造ります」
 
・会うたびに彼が話すのは次の三つ。
季節の素材が料理を教えてくれる」「おいしいもんと珍しいもんは違う」「死ぬまで勉強」献立は材料を見て決めること。材料を見ながら、食べるお客さんの顔を思い浮かべること。お客さんが女性で高齢者だったら、刺身の切り身の大きさまで考えることにしていること……。材料を見て、手に取った時に彼の頭には料理の完成図がある。調理のスキルは身体が覚えているから、頭のなかには工程や数値は入ってこない。だから、レシピについては話のなかには出てこない。
 
・京味には国内に限らず、世界各国から客がやってきた。皇族、裏千家家元を始めとする国内の有名人、文化人が食事をしに来た。外国人でもジョン・レノンを筆頭に著名な人がやってきた。しかし、西の態度は変わらなかった。
 
いい料理人になるにはね。常連のお客さんが残すようになったら、腕が落ちてる証拠や。材料が悪いのかもしれん。料理に飽きてるのかもしれん。常連さんが教えてくれる。常連さんが料理を残すようになったらしまいや。長年、来てくださっている方が食べられる料理を作る。そのために勉強すること。私は外食が悪いとは思っていません。新しい素材を使うのもいい。でも、いちばんはお客さんに聴くことです。いつもお客さんに食べた感想を聞いて、夜中にそれをメモして、メモを読んで料理してます。私の書いたメモ、見てみますか?うちにある提灯の方たち、あの方たちは私の料理の先生なんです亡くなる前の彼とわたしの最後の会話だった。
 
・大半の家庭は家でテレビを見ることもなかったから、母親が丹精を込めてこしらえる夕食を食べることが一日のうちの最大の愉しみだったのである。思うに、西の料理人としての最大の強みは子どもの頃の食生活体験ではないか。毎日、自然のものを食べたこと、テレビもスマホもない環境で、料理を集中して食べたこと。あの時代に暮らしたものでないと、もはやこういう食生活はできない。トマトや胡瓜のえぐみ、いんげんを茹でた時の青くさいにおいを知っている人間はいなくなりつつある。
 
・わたし自身は料理よりも、西健一郎の人柄に触れて感動したことの方が多かった。市川海老蔵さんの夫人、小林麻央さんが亡くなった翌日のこと。代官山にある実家の密葬に、西は杖を突き、タクシーに乗ってやってきた。手を合わせてお別れをした後早いなあ、早い」と呟いた。そして「みなさんでどうぞ」と塗りの重箱に入れた手製の弁当を置いていった。ひざの手術を二度、心臓を二度やっている。晩年は満身創痍という感じだったが、それでも料理には熱中していた。そういう体であっても、長年の顧客に不幸があったと聞けば、手製の弁当を造り、自ら携えていくのである。
 
・顧客が昇進した。あるいは叙勲があったなど、お祝いの関に赤飯や弁当を届ける料理人はいる。しかし、顧客が不幸に遭い、力を落としている時、苦しい時期に、そっと弁当を届ける料理人は西健一郎の他にいるだろうか。
 
西の舌、鼻は昔の野菜の味とにおいを覚えている。素材を選ぶ時でも、昔の味に近い野菜を買ってくることができる。昔の味を食べたことのない今の料理人にはそれができない。さらに、彼の舌は強い味の調味料、脂、砂糖にはほぼ触れていない食事の際にやたらとソースやドレッシングをかけることもない。カップ麺も食べないし、コンビニ弁当とも縁がない。西が育った時代、舌という感覚器は今の料理人とはまったく違う成長過程をたどったのである。つまり、彼の舌と今の料理人の舌では味覚を感じる力が決定的に違う。調味料にしても、西は素材や料理の味を引き出すために使う。しかし、お好み焼きにソース、マヨネーズをかける人は味を引き出すためではなく、強烈な味を追加するために使っている。西はそんなそんな調理はしない。
 
「料理には食べる喜びだけではなく、作る喜びというのがあるんやな」とふと感じたのである。そして、母親が出したおかずを食べると、醤油や砂糖の量がだいたいどれくらいだったのかが瞬時にわかった。それはひとつの才能と言っていい。
 
・あの頃は便利な調理器具はなかった。調理に取り掛かる前の下ごしらえに時間がかかった。魚肉のすり身を作ろうと思ったら、まず包丁で細かく刻み、そして、すり鉢であたった。下ごしらえは包丁を使うことが基本だった。そして、包丁を使うことで、調理の技術は上達していった。文字通り、包丁を自分の手のように使うことができるようになっていった。これ、どうやって作るんですか?」などと、聞こうものなら、すぐに頭をひっぱたかれるのが当たり前だったからだ。親方も先輩も調理は教えてくれない。自分の仕事をしながら、技やコツを盗むしかなかったのである。
 
追いまわしの仕事のひとつに材料の調達がある。料理を包む笹の葉、蓼酢に使う蓼といったものは仕入れるのではなく、追いまわしの人間が採りに行くのである。どこに笹や蓼が生えているかは教えてもらえない。苦労して探し当てるしかないのだが、佐伯の自然のなかで育った西はどういったろこに生えているのかが勘でわかった。都会生れの料理人ではこういうことはできない。笹も蓼も、置いておくと傷んでしまうので、毎日、昼の休憩時間や、仕事が終わった深夜に行くのが決まりだっただが、西は翌日の分まで多めに確保しておいて、一部は鴨川の水辺に隠しておいた。
 
「聞いてはいけない」「やってはいけない」と言われると、人間は見ることに集中する。毎日毎晩、親方や先輩がやっている、だしのとり方、味のつけ方をじっと見つめていれば、コツは自然と頭のなかに入ってくるのである。
 
・彼にはある考えがあった。手間がかかるために世の中から忘れされた昔の料理をもう一度、作り直して世の中に出してみたい…。自分なりにそういう料理の研究もしていた。また、コースの一品には丹波で日常で食べていた素朴な料理をつけてみたかった。料理は自己表現だ。技術は上達しても、自分の表現ができなければフラストレーションが溜まる。自ら望んだわけでもなく始まった料理修行の日々から生れたのは、思うとおりに料理を作りたい、自分がくふうした料理を食べてもらいたいという願望だった。
 
食事の内容や食べ方や食事をする環境も大きく変化した、影響を与えたのは、二十世紀最大の発明品、テレビである。それまでどこの家での夕食は家族で話をしながら食べるものだった。食事は会話とともにあったのである。だが、テレビが登場してから、家族はお互いの顔を見るのではなく、画面を見つめながらごはんを食べるようになった。テレビがついていたら、家族は一緒にいても、それぞれが見ていたのは画面だ、そして、今、家族が見るものはテレビ番組からスマホに変わった。
 
昭和の食事の風景とは。昭和三十年代、まだテレビがやってきたばかりの頃、初めのうちは食事中は見てはいけないものだった。ただ、一年もしないうちに番組を見ながら口を動かすようになる。テレビ局も夕食の時間に視聴率が取れるような番組を編成しるから、その強い力の前には誰もあらがうことはできなかった。その頃の食事の時間は短かった。酒を飲むのは家長だけだ。いわゆる晩酌である。せいぜい日本酒で一合のこと。食事にしても、おかず一品、二品とご飯を一杯か二杯食べること。通常、デザートは食べていない。食後に、庭に生(な)っていた、いちじくや柿を剥く。あるいは到来物の西瓜、梨、りんご、みかんを食べることはあった。しかし洋菓子店で買ったケーキやプリンを日常的に食べる家庭はなかった。
 
外食もまた日常のことではなかった。一家の主人をのぞけば外食の機会はなかった。一家の主人が友人、会社の同僚と食事をする場合、自宅に招くことも少なくなかった。その際に主婦が酒肴や料理を作るのだが、鰻、寿司の出前を取ることもあった。その場合でも、すまし汁(味噌汁ではない)などの椀物は主婦が手作りするのが習いだった。鰻重のような高級な店屋物は、たとえ客であっても全量を食べてはいけないという不文律の習慣が確実にあったと思う。
 
外食が増えたきっかえは、チェーン経営によるファストフードやファミリーレストランの登場からだ。飲食店が増え、働く人も増える。調理師学校が現れ成長する。店や料理人について報じるメディアが増えてきて、食の周辺ビジネスが活発化する。「グルメ」「三ツ星」「まったりした味」といった料理の用語が日常会話に登場し、世界の食材がスーパーに並ぶ。その結果料理人の地位が向上した。
 
・「カウンターに立つ料理人がやらなければならないのは、お客さまの様子に気を配ること。箸の進み具合を見ながら、料理をサービスする。召し上がる様子を見ながら、時には献立をさっと切り替えることもあります。年配のご婦人でしたら、刺身を小さめに切るなどのくふうもいりますし、体調が優れないと聞けば雑炊を作ることだってあります。カウンター割烹ならではの小回りのきいたサービスです」
 
「初めてのお客さまに対して、料理人がやることが全力で料理を作ること、全力でもてなすこと。自分の持っている技術を全部出し切ることです。そして、緊張をほぐしてあげる。私の経営とはもう一度、来てもらう店になることだけです」
 
・父、音松は教えに来ているのに、教えない。しかも、大切なところは「見るな」と言う。それが昔の職人だ。息子でさえも、料理人としてはライバルだから、味つけを教えることはありえない。
 
・「日本料理から季節感を取ってもうたら、あとに何が残るんや。わしの仕事は古い仕事だけれど、どれも料理の旬を大切にしたもんばかりや。それと、わしの料理は、自分でも素っ気ないと思うくらい地味なもんや。ようわかってる。でもな、どないしても飾り立てる気はせえへん。いちばん大事なのは、食べておいしいということや。見てくればっかりよくても、食べてまずいのんは料理ではない。いいか、おいしいもんと珍しいもんは違う
 
「本もテレビもダメだ、絶対にダメだ。本やテレビを見て、人に聞いて簡単に料理ができると思ったら大間違いや。本に頼ったら、料理人は勉強せんようになる。人間がアホになるだけや」
 
・西音松の料理はいずれも高価な材料で作ったものではない。しかし、とても手間がかかっている。だしは毎日、必ず新しいものをとる。削り節など使わない。すべて手で鰹節を削る。花がつおと作るのだって、電球のかけらで細く削ったりする。年中無休、二十四時間、料理をしていなければ作れないものばかりだ。そういった手間のかかる料理が京味の料理だった。季節が教えてくれる料理。手間をかけて作った料理。材料をデコレーションするのではなく、材料が持つ本来の味を引き出すためだけに調味料を使った料理西健一郎はそれを音松から教わった。
 
・西は料理の作り方だけを教えてくれるわけではない。昭和の生活の知恵を伝え、伝統の持つ意味を教えている。
 
 
「父・西音松の15年の教え」「新年のおせち作り」は圧巻だ。これが昭和だったんだ。料理界の昭和史。食に携わるすべての人に読んで欲しい。もう一度言います。今年ナンバーワンの本です。超オススメです。(・∀・)

 

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京味物語