「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「食堂車乗務員物語 あの頃、ご飯は石炭レンジで炊いていた」(宇都宮照信)

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全国旅をしてきたけど、唯一体験したことがないのが食堂車。いま、どれくらい残っているのだろう!?駅弁に替わっちゃったもんねえ。
 
あの頃、ご飯は石炭レンジで炊いていた。今では一部の寝台列車に残るのみだが、かつては贅沢な旅の象徴であり、憧れの鉄道旅行シーンの代表格であった食堂車。本書は、その食堂車の全盛期に乗務をしていた著者による体験談、歴史秘話。読み進めるうちに、思い出の車窓風景や懐かしのメニューがよみがえる。美味しいハナシを召し上がれ!」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
日本で初めて食堂車を走らせたのは山陽鉄道会社。明治32(1899)年5月25日。京都〜三田尻防府駅の1往復だった。食堂車や寝台車……何でも、国鉄や他の鉄道会社がしていないことを次々にやる、未来を見据えた中上川(なかみがわ)彦次郎山陽鉄道ならではことだった。1両を半分に仕切り、半分は座席、あとの半分が食堂で、合造車と呼ばれていた。料理は全部西洋料理で、和定食とか味噌汁などといいうものはない。食堂車を利用できるのは、1、2等客だけで、3等車(現・普通車)の客は食堂車に入れなかった。
 
食堂車が増え、利用者が増えたのは、遠因のひとつは徴兵。当時まだ汽車に乗る機会が少なかった田舎の人たちが、召集令状をもらい、指定された舞台に汽車で行く。また、入営すれば当分、家族ともお別れだから、この際、食堂車で食事をしよう……などというようなことが増え、そいういう彼らの初体験がその後の食堂車利用を広げていった。
 
・大正14(1925)年に鉄道省が発した通達により、食堂車の営業時間は午前5時から翌日午前1時まで、20時間営業だ。コックやウェートレスたちは、営業開始前の準備、営業終了後の後片付けなどもあるから、果たして寝る時間は逢ったのだろうか?2時間半しか寝ていなかった私の感想。
 
・昭和4〜6年頃は列車全体に冷房はなかったが、食堂車(座席定員30人)にはテーブルごとに1台の扇風機が付いていた。昭和12(1937)年からは食堂車にだけ冷房が入ったとある。昭和5年に女子ウェートレスが登場。
 
 
その他、「太平洋戦争拡大で、昭和19年、日本中の食堂車がすべて廃止」「食堂車の終焉。平成の今、日本の残る食堂車付き列車は3本」「急行食堂車の料理/石炭レンジ」「石炭の緊急補給は機関車から。いざというときは駅への投げ文も」など。

 

一度、乗りたかったなあ〜!旅の情緒あふれるよね〜!オススメです。(・∀・)

 

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