著者の久世光彦さんは、ちょうどワタシの両親と同じ世代。あの頃の昭和って、ちょうどこんなカンジだったんだね。
「あのころは、ゆっくりと流れる時間の中で子供たちの笑顔が輝いていた。失くしたくない、忘れたくない昭和がここにあるー。昭和の日々を写真とエッセイで綴る。川本三郎、俵万智、久世光彦による特別鼎談も収録」そのエッセンスを紹介しよう。
「女学生」
・いまでも私は、セーラー服の女の子を見ると「女学生」 と言って、傍の人に笑われる。女子中学生とか女子高校生とか、 なかな言えないのは、年齢のせいだけではなく、あのころの「 女学生」が忘れられないのである、
「喧嘩」
・子供が喧嘩をするのは当たり前だった。 喧嘩に負けて泣いて帰っても、 父や母はちょっと横目に見るくらいで、宥(なだ) めてもくれなかったし、その理由も訊ねてもくれなかった。偶( たま)に勝つと、相手の親が苦情を言いに、本人帯同で家( こっち)にやってくる。とにかく頭を下げさせられる。 本人たちは納得していなっくても、 親同士の間で今後の友好条約が締結されて、 めでたしめでたしとなる。戦争前の子供の喧嘩なんて、 そんなものだった。鼻血を出したり、 前歯の一本やそこら折ったって、誰も何も言わなかった。 いまみたいに学校へ問題を持ち込んだりする間抜けな親は、 一人だっていなかった。
▲「豆腐屋」
このごろは「豆腐を一丁」とはほとんど誰もいわなくなった。 ワンパックと言う。箪笥の一棹は死語になっても仕方がないが、 豆腐だけは一丁、二丁であって欲しいと思う。
「電話」
芥川や菊池寛や小島政二郎たちは、予告もしないで、 いきなり相手の家を訪ねている。いたらいたで良し、いなければ、 さほどがっかりもせず、「ああそうですか」と帰る。 そのために省線から市電に乗り換え、 さらに二十分も歩いてやってくるのである。のんびりした話だが、 それが普通だった。売れっ子の文士たちの家にも、 電話はなかったのだ。それほど数が少なかった電話が、 いまでは歩いている人のポケットに一つずつあるようになった。 便利は便利だが、どこで、何をしていても、 忽ち御用になってしまう。 ーその割に言い訳の数は昔より増えていない。昔もいまも、 とかく世間は住みにくい。
▲「広告塔」 あの!伝説の「光クラブ」だよ!!!本当に「広告塔」があるとは!知らなかった!
いいなあ……昭和って。ワタシもいつか、こんなエッセイを書いてみたいなあ。オススメです。(・∀・)