酒場のギター弾き 小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「時代劇は死なず!完全版 京都太秦の「職人たち」」(春日太一)

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この本を読んで悔やんだのは、時代劇をほとんど見てなかったことだ。水戸黄門をちょこっとくらいだなあ。勝新太郎座頭市は特に見たかったなあ!そして太秦の映画村は2回行ったことがあるけど、そんな歴史があるとは!!!
 
新選組血風録』『木枯し紋次郎』『座頭市』『必殺』…傑作時代劇誕生の裏側を証言と秘話で綴る白熱の時代劇史、大幅増補・完全版」そのエッセンスを紹介しよう。
 
日本映画は京都で発祥している。1897年、シネマトグラフの開発者・フランスのリュミエール兄弟から機材と興行権を譲り受けた稲畑勝太郎が、京都・四条河原町付近にあった京都電燈株式会社の庭で映写実験をしたことが、日本初の映画上映となったのある。
 
太秦には二十数年前までは、東映、松竹、大映の三つの撮影所がひしめき合っていたのである。その三撮影所の人間たちが、邦画産業が壊滅的になった1970年代前後の「斜陽期」をいかにして乗り切っていったのかを追うものである。
 
1957〜60年には10億人を超えていた映画人口は、良く61年には3000万人の減少、さらに63年には半分の5億人、67年には3億人へと急降下していた特に時代劇の興行不信は大きく、経営に苦しむ各社の間では時代劇不要論=太秦不要論が囁かれ始める。時代劇映画の制作本数も60年には各社合計で168本だったのが、わずか2年後の62年には77本、66年には15本まで落ち込んだ。間違いなく時代劇は消える。当時、誰もがそう思っていたに違いない。しかし、時代劇は、そして太秦は生き残った。現在も太秦は動き続けているのである。それでは、太秦のスタッフたちはいかにしてこの危機的状況を克服し、現在に時代劇の灯を点し続けていったのだろうか。
 
・「撮影所は利害関係を無視した社会なのね。心のつながりの同志的結合体なんですよ。ボクは上下関係を否定したんです。上役なんておらへん、と。映画なんてのは、オレが日本一とい思うおる奴らが寄って作るもんなんですよ
 
・「マンネリを作る、ということです。「いつ見ても同じだな」と言われるようなになると長く続くんです。マンネリを作るのは大変なことなんだ、と。大衆に受け入れられる要素があるからマンネリになるんであって、それがないと続きません。パッと初めて見た時に「これは面白い」というのでも、10本続くとマンネリになる。それが段々といつ見ても同じ」だけど「見てしまう」となっていくんです。それがマンネリを作るということです」(『暴れん坊将軍』)
 
映画からテレビへ向かっていった人々の戦いがあったからこそ、時代芸は京都で今も生き続けている」
 
「輝けるスターたち(片岡千恵蔵市川右太衛門の両御大)」「ご家族揃って東映映画」「東映時代劇、テレビへ」「大映勝プロの葛藤」「松竹京都映画と「必殺」シリーズの実験」「東映の転身」など。

 

著者は、1977年生れで、映画史・時代劇研究家ってスゴイなあ。遡って時代劇を観たんだねえ。あらためて時代劇観たくなりました。オススメです。(・∀・)

 

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春日さんのこの本が圧巻のオモシロさだったあ!併せて読むといいです。オススメです。

 

lp6ac4.hatenablog.com