常に図書館から20冊借りていて、20冊予約しているワタシ。なんでこの本が来たんだろう!?ということはよくある。この本もそう。この作者って誰っ!?なんでこのタイトルの本を予約したんだろう!?と思って期待しないで読んだら、期待を超えてオモシロイわー!!!(・∀・)
「東アジアの国名表記にメスを入れ、外交にも影響を与えたと言われる伝説のエッセイ「『支那』はわるいことばだろうか」をはじめ、明快かつ深い李白と杜甫論、狩野亨吉、江馬修らを論じた傑作人物エッセイを収める。また、言葉の観点から捉えた辛辣な批評「新聞醜悪録」や「書評十番勝負」「湖辺漫筆」など、すべての本好きに捧げる名篇が収録され、第11回講談社エッセイ賞を受賞した、著者の代表作を復刊!」
【握りまして先番】
碁が好きである。 毎週日曜日お昼のNHK杯争奪トーナメントの番組はかかさず見る 。ところが最初の5分がどうにもイヤだ。司会が「 囲碁ファンの皆さま、こんにちわ」とあいさつする。 とたんに気分がわるくなる。いったい「囲碁ファン」 なんて言葉があるものだろうか。また、 そういう人間がいるものだろうか。そもそも「ファン」とは何か。
「ファン」とは、自分がそれではなく、 あるいはそれをするものではないが、それが大好きである、 という人間のことである。貴花田ファン、村上春樹ファン、 サッカーファン、相撲ファン、プロ野球ファン、阪神ファン…… すべてそうである。
逆に、自分がそれであり、それをする者のことを「ファン」 と呼ぶことはない。たとえば、高校野球の選手のことを「 高校野球ファン」とは言わない。 自分もそれをする者だからである。 日曜画家が本職の展覧会を見に行っても「絵画ファン」「 美術ファン」とは言わない。
教育テレビのNHK杯トーナメントを見る人は、日曜画家と同様、 すべておよばずながら自分もそれをやる人である。そこが、 野球や相撲と、碁とが全然ちがうところである。野球や相撲は、 自分はできなくても、人がやるのを見るのはおもしろい。だから、 女の相撲ファンや貴花田ファンがいくらでもいる。
碁はちがう。自分はできないのに、 他人の打っている碁がおもしろい人などいない。毎朝、 30分くらいかけて、新聞の囲碁欄を見る。 これが毎日の朝の楽しみである。生花をやっている人が「 生花ファン」と言われたらおもしろくなかろう。 ピアノを弾く人が「音楽ファン」と呼ばれたら不愉快であろう。「 囲碁ファン」もそれと同様である。なお自分が碁を打つ者は「 囲碁」とは言わない。必ず「碁」と言うものである。「囲碁」 は碁を知らない人の言う言葉である。