「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「日本習合論」(内田樹)

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日本習合論

日本習合論

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 いや〜いいわ、この本。内田樹センセイ、いいわー〜共感するわー!!!なんとなくワタシが考えていたことを、明確に言葉にしてくれたわー!!!

 

「外来のものと土着のものが共生するとき、もっとも日本人の創造性が発揮される。どうして神仏習合という雑種文化は消えたのか?共同体、民主主義、農業、宗教、働き方…その問題点と可能性を「習合」的に看破した、傑作書き下ろし」そのエッセンスを紹介しよう。


養老孟司先生によると、日本列島には三次にわたって別の土地からの集団移住があったそうですが、この三つの集団のすべてのDNAが現代日本人には残っているそうです。ということが、かつて外見も違う、言葉も通じない、生活文化も違う異族同士が遭遇したときに、彼らは殲滅(せんめつ)でも、奴隷化でも、逃亡でもなく「混ざる」ことを選んだということです。別に熟慮の末ということではなかったのでしょうけれど、たまたま混ざったら、なんとか折り合いがついて、どちらも死なずに済んだ。それが成功体験として記憶され。種族の生存戦略として採択された……ということではないかと僕は創造しております。

 

日本の文化は雑種文化であるいろいろなものが混じりあっている。それが日本文化のいわば手柄である。これを否定して、日本文化を世界に冠絶する純粋種の文化だと言い立ててみても得るところはない。それはむしろ英仏の純粋種文化に対する劣等感の表白に他ならない。僕の「習合論」神仏習合は雑種文化の典型的な事例である」という仮説から出発するものです。

 

僕たちは「起きたこと」については「どうして起きたのか?」という問いを立てますけれど「起きなかったこと」については「どうして『起きてもよかったこと』なのにそれは起きなかったのか?」という問いを立てる習慣がありません。仏教が渡来してしばらくして神仏習合は始まりました。だから、すでに千年以上の歴史がある。それが明治政府の政治的決定によって否定された。否定するのはいいです。そうしたい理由が政治指導者の側にあったわけですから。でも、人々がそれをぼんやり指を咥えて眺めていたのがわからない。どうして、何かしなかったのか?

 

この世のほとんどの人間について、僕たちは理解も共感もできないんです。それにもかかわらず人間関係は理解と共感の上に基礎づけられるべきだとうイデオロギーだけは蔓延している。変な話です。

 

「あなたの考えていることがよくわからない」に続く言葉は「だから、もっと話を聞かせてください」でしょ?「あなたのことがもっと知りたい」でしょ?それがほんとうに親しい人間関係を創り上げてゆくときのキーワードじゃないですか。人を好きになるって、そういうものです。「あなたという人のことがよ〜くわかったわ」というのは恋の始まりではなく恋の終わりのときに口に出る言葉です。わからない、わからないからもっと知りたい、でも、完全に知るということはないだろう……というのが人間関係の基本です。そこから始まって、そのまま続いてゆく。

 

僕が「和」をあまあり好まないのは、「和」を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって「そこを動くな」「変わるな」と命ずるようになるからです。

 

ミスマッチを「悪いこと」だと考えるから傷つくんです。人生はミスマッチだらけです。僕たちは間違った家庭に生まれ、間違った学校に入り、間違った人と友だちになり、間違った相手と結婚して、間違った仕事を選んで、間違った人生を送るそういうものなんですよ。それでいいじゃないですか。「ミスマッチ」が悪だと思うのは「マッチすること」がふつうだと思っているからです。「何も言わなくても、気持ちが通うはずだ」というようなとんでもないことを期待する。そんなわけじゃないですか。

 

習合は社会集団が寛容で、かつ効率的であるためによくできたシステムではないかという仮説です。特に日本列島住民は古代から異物と共生することでこれまで「うまくやってきた」んですから。だったら、これからもその伝統を守ってゆけばいいじゃないですか。

 

人類の食文化は飢餓ベースです。餓死者を出さないこと、そのために人類は食文化を発展させてきたのです。食文化は二つの工夫に集約されます。一つは不可食物の可食可です。そのままでは食えないものをなんとか食えるようにする。そのためには人類は驚異的な努力を積み重ねてきまいsた。叩いてみる、焼いてみる、蒸してみる、燻蒸してみる、挽いてみる、水に晒してみる、日に干してみる……「こんなもの絶対に食べられない」というものをなんとか可食化してきた。これが食文化の輝かしい成果です。もうひとつは食習慣の差別化です。隣接する集団と自分たちの集団の主食を「ずらした」のです。同じものを食べない。隣がバナナを主食にするなら、自分たちはイモを食べる。すべての集団が同じ植物を主食としていたら、その種が不作となったら、全集団が同時的に飢餓の危機に瀕します。当然、主食の奪い合いが始まる。それを防ぐためには食習慣をずらすのがもっとも確実です。

 

食文化のリテラシーが高い人というのは「何でも食える」人のことです。他の人は「こんなもの食えるか!」と言って棄ててしまうものを「おお、美味しい」と言ってぱくぱく食べられる人が飢餓にもっとも強い。親たちが子どもに「好き嫌いをしないで」とうるさくしつけたのは、道徳的なものではなく、そのような食文化リテラシーの高い個体のほうが飢餓を生き延びるチャンスがあるから、そう教えていたのです。

 

人が住まなくなると、家の生命力も衰える。あっという間に崩れてゆきます。人が住んでいる家で、筍が床を突き破って生えてくるなんて話、聞いたことがありません。そこの人が住んでいるというだけで、自然の力を押し戻す何らかの力が働いているということがあるんじゃないでしょうか。

 

・僕が知っている「すごく頭のいい人」たちにはある共通点があります。それは「どんな変な話でも一応聴く」ということです。どんな変な話でも、それを現に目の前で語っている人がいる以上、なんらかの文脈に沿って登場してきたはずです。そのような変な話が生成する必然性があったとうことです。出力は変てこでも、それが生成するプロセスには合理性がある。では、どのような入力があって、それがどのように変成していったのか?「すごく頭のいい人」はそれを観察し、分析する。

 

特に「愛農高校の自給自足」「永井陽右(ようすけ)さんのソマリア人道支援」「異物との共生を可能にする習合システム」「母語アーカイブに外来語を混ぜる癖」「農業を市場原理に従わせることはできない」「日本の会社の雇用形態がもっとも成功した時代」「引きこもりを現代の堂守・寺男として採用」「セデック・バレ(セデック族)」など。

 

これ、多くの人に読んでもらいたいなあ。人間の器が大きくなるだろうなあ。超オススメです。(・∀・)

 

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