「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部)

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 ワタシの原風景。新潟十日町松之山の保育園で歌った「歌の町」「靴が鳴る」「一年生になったら」。これが最も古い音楽の記憶だ。これらの曲を聞くたびにあの頃の風景がよみがえる……あー、懐かしいっ!!!

 

さてこの本。「赤とんぼ」「浜辺の歌」「かあさんの歌」…。長く愛唱されてきた歌はどのように生まれ、時代の波にどのように洗われてきたか。作詞者、作曲者にはどんな人生のドラマがあったか。誕生の地、ゆかりの地を全国に訪ね、胸にしみる数々の逸話を掘り起こす。いま静かなブームを呼んでいる唱歌・童謡の世界を深く楽しむ上で最適の本」そのエッセンスを紹介しよう。
 
「うれしいひなまつり」(作詞 サトウハチロー 作曲 河村光陽)
 
ハチローはこの歌を嫌がっていた。晩年まで「だれか、これにとって代わるひな祭りの歌を書いてくれないかなあ」とぼやいていた。理由は二つ。一つは言葉遣いがハチローらしくない。『お嫁にいらした』と、身内のことを敬語を使っている点が、後々もひっかかっていた。もう一つ。「それは、歌を作ったころ、既にみな他界していた同じ母を持つ姉妹への思いではないか」
 
四歳年上の姉からはピアノの手ほどきを受け、詩的なものの見方などの面でも大きな影響を受けた。大好きな姉は、嫁ぎ前も決まっていたが、胸を患ってお嫁に行かずに18歳で亡くなった。色の白いお姉さんだった。次男の四郎は「随分悲しい曲なのに、何で〈うれしい〉んだろう」と不思議に感じた。やがて、ひとつのレクイエムなんだなあ」と思うようになった。「作家や歌手のことを話す時は女性のことしか話さない父が、自分の姉や妹の話はしなかった。ものすごく涙腺の弱い人だから、この歌が悲しくてやりきれなかったのかもしれません
 
「蝶々」(作詞 野村秋足 稲垣 千穎(いながき ちかい 原曲 スペイン民謡)
 
『蝶々』が生まれた明治初期。今でいう唱歌は一曲も存在しなかった。その後に作られた多くの唱歌が忘れられていった中で、日本最初の唱歌が、稀代の傑作として行き続けているという事実ー。これを奇跡と呼ぶならば、それは、縁あって明治の唱歌教育の取り組んだ、一人の男の執念が招き寄せたものであったのかもしれない。(伊沢修二
 
「めだかの学校」が小田原の荻窪用水

http://www.scn-net.ne.jp/~yanya/medakanogakkou.html
 
「早春賦」「春よ来い」「花」「朧月夜」「とんがり帽子」「浦島太郎」「青い眼の人形」ぞうさん」「ドレミの歌」「手のひらを太陽に」「花嫁人形」「おもちゃのチャチャチャ」「赤い靴」「椰子の実」「島原の子守唄」「高原列車は行く」「みかんの花咲く丘」「夏は来ぬ」「美しき天然」「むすんでひらいて」「てるてる坊主」「しゃぼん玉」「サッちゃん」「夏の思い出」「われは海の子」「浜辺の歌」「月の沙漠」「やぎさんゆうびん」「あの子はたあれ」鉄道唱歌」「かわいい魚屋さん」「ちいさい秋みつけた」「故郷の空」「証城寺の狸囃子」「時計台の鐘」「埴生の宿」「故郷」「旅愁」「荒城の月」「里の秋」「赤とんぼ」「靴が鳴る」「夕焼小焼」「おはなしゆびさん」「通りゃんせ」「桃太郎」「かなりや」「たきび」「いぬのおまわりさん」「砂山」「かあさんの歌」「ナイショ話」「汽車ポッポ」「雪の降る町を」「おもいでのアルバム」「仰げば尊し」「蛍の光など。

 

今度、小田原に帰ったとき「めだかの学校」を覗いてきます。オススメです。(・∀・)

 

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