いや〜!この本いいわー!じっくりと読みました〜!かつて読売新聞日曜版に連載されていた唱歌版をつくってみたいわー!♪ (・∀・)
。これ、ワタシの愛
「かごめかごめ」「影を慕いて」「鉄腕アトム」「翼をください」「大きな古時計」…。世代をこえ歌い継がれてきた愛唱歌は、どのように生まれ、人々のこころの中で育まれたのか。唱歌・童謡をはじめ、流行歌、民謡など幅広いジャンルの66曲を採りあげ、秘められた逸話を探る。好評『唱歌・童謡ものがたり』の続編」そのエッセンスを紹介しよう。
・どんな歌にも「作者」と「愛好者」がいる。僕らはその両方の立場から、資料を調べ、関係者を捜し彼らの思いや体験を集めて、各々の歌の「時代」を浮き彫りにするー。それは記者冥利に尽きる作業だった。問題は、明治・大正の「唱歌・童謡」には「作者」の顔が見えない歌が多いことだ。作者不詳。何とか特定できたとしても、はるか昔に没しており、遺族をたどることも難しい。『愛唱歌ものがたり』は、そんな記者たちの不安を払拭する、切り札として登場したのである。
「オウマ」(作詞 林柳波 作曲 松島つね)
四方を山に囲まれた群馬県沼田市。林柳波(本名・照寿)(1892−1974)の母校。市立沼田小学校はその市街地にある。校庭には柳波自筆の『オウマ』の詩碑が建ち、四半世紀にわたって後輩たちを見守り続けている。
『オウマ』は『ウミ』とともに、1941(昭和16)年に出た国定教科書『ウタノホン上』に採用された。その原型になった詩が、31年に発表した詩集『水甕(みずがめ)』に収められたいると二女の小枝子(78)が明かす。
柳波は娘たちを連れてタクシーでドライブに出かけるのが好きだったという。まだ小枝子が幼かったこと、いまは新東京国際空港となった千葉県成田市の三里塚御料牧場を訪れたことがあった。母馬が何度も後ろを振り返りながら、なかよく子馬と歩いているのがほほええましくて、姉たちといつまでもその様子を見ていた。そんあ娘たちの姿を、柳波は優しく見守っていたという。
「三匹お馬は親子です/牧場に棲んでる親子です/いつでもならんで歩きます」
大正のころまで同市では、どこの農家でも馬を飼っていた。荷物を積んだ親馬が、後から付いてくる子馬を心配そうに見ながら歩いてゆく景色が、生活の一部としてと溶け込んでいたという。
そんな『オウマ』は、95年度を最後に教科書から姿を消した。馬が身近にいなくなり歌詞が共感を得にくくなたことなどが理由だという。詩碑がある沼田小でさえ、歌詞は知っていても歌えない子が増えているのが現状だ。
「雀の学校」(作詞 清水かつら 作曲 弘田龍太郎)
歌詞中の「鞭」は、タクト代わりに「先生」が降る教鞭を指している。大正期の典型的な光景を雀に置き換えたかわいらしい歌なのだ。「チイチイは鳴き声、パッパは羽ばたきの音。群雀のかわいらしい生態を素直に描いているから幼稚と思われがちですけど、実は身近な風景を歌にするほど難しいことはないんです」
「背くらべ」(作詞 海野厚 作曲 中山晋平)
厚は19歳で故郷・静岡市を離れて上京しているが、詞が「をととし」なのは、作詞当時、実際に二年間帰郷できなかった事実があったからである。末弟の春樹は小学生三年生でちょうど羽織の紐が気になる年ごろだった。17歳歳下の春樹は特別な弟だった。共に暮らす期間が短く、弟の成長は時折の帰郷で確認していた。それだけに二年も帰れなかったことが「弟も淋しがっているだろう」という気持ちをつのらせ「背くらべ」創作へとつなながった。
その他、「おもちゃのマーチ」「かごめかごめ」「あめふり くまのこ」「お猿のかごや」「とんぼのめがね」「どんぐりころころ」「七つの子」「かもめの水兵さん」「船頭さん」「洒落男(二村定一)」「箱根八里」「汽車(大和田愛羅)」「はしれちょうとっきゅう」「琵琶湖周航の歌」「ウミ」「テネシー・ワルツ」「時には母のない子のように」「男はつらいよ」「おてもやん」「お正月」「きよしこの夜」「中国地方の子守唄」「大きな古時計」「長崎の鐘」「軍艦行進曲」「月光仮面は誰でしょう」「モスラの歌」「元寇」「黒田節」「すべての人の心に花を」「翼をください」「空よ(あなたのメロディー)」など。
歌の背景にある心や想いを知ることができ、歌ごとの味わいがあるわーー!瀧廉太郎、いいなあー!これ、こんどの高齢者向けの「流し」で歌うリストができた。オススメです!(・∀・)