「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「談志 最後の落語論」(立川談志)

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談志最後の落語論 (ちくま文庫)

談志最後の落語論 (ちくま文庫)

 

最近笑点がつまらない、という妻の評。まあ、ずっと惰性で観ているけどそうかも。ワタシはなんといっても、三波伸介だったなあ!あのオモシロさ、名司会っぷり、まさに昭和そのものだったなあ。そして初代司会者の立川談志!個性的な噺家がどんどんいなくなるね。

 

さてこの本。談志の最後の落語論。「伝説の『現代落語論』から五十数年、亡くなる直前まで「落語」と格闘し続けた談志が最後に書き下した落語・落語家論の集大成」そのエッセンスを紹介しよう。

 
「落語とは、人間の業の肯定である」と25年前に書いた。人間というものの業、それは知性でも理性でもどうにもならないもの、世間では「よくない」といわれているもの。それらを肯定し、寄席という空間で演じられてきたのが落語である落語に対する能書きを本にするのは最後になるかもしれない。書けるところまで書いてみる。
 
・人間の業とは何か。人間、唯ァ生きられりゃそれでいいものを、現代のように80だ、90だということになると、そのあいだの退屈を紛らわせるために余計なことをしようとするつまり「好奇心」。この始末が悪いものを談志(わたし)は「業」と称(い)っている、ということ。「一生懸命に人間を楽にするモノを創ろう」とやってきた奴も業だし、「どうやって人殺しをしよう」と考え、実行してきた人間も、これまた業である。で、落語は、それらをひっくるめて認めちまえ、というこった。落語の根底にあるのが、常識に対する非常識で、それを「業の肯定」という言い方をしたのが、若き頃の談志であった。
 
志ん生は喋る。「えー、ヘビなんでなァ、何で“ヘビ”と呼(い)うようになったんですかネェ。あんなモノは、昔は名前なんぞなかったもんでェ」“何だい、こりゃあ。頭からすぐ尻尾になってらァ” “何だい、ってなほどのもんじゃないよォ。こんなもなァ、屁みたいなもんだい” で、あれを“へ”と呼ったそうですね。“へが行く、へが行くなんてンでェ”。で、そのうちに“ビィ”となって、ヘビだそうで。
 
これ聞いてぶっ飛んだ。そうなんだよ。その通りなのだ。蛇なんてなァ、へがビィとなってヘビなんだ、ってネ。これだ、これでいいのだ。
 
・「大蛇(うわばみ)は、どういうわけで“ウワバミ”ってンだ?」「あんなのは“ウワッ!”と……」「おい、驚かすなよ」「驚かしゃしねえよ。“ウワッ”てのがあると思えよ」「うん」「思ったか?」「思った」「バミるんだ、それが」「え?」バミるんだよ」「なんで?」「“なんで”ってたって知らない。バミるんだもの」「で?」「ウワがバミるから、ウワバミ」
 
その志ん生とて、「いいほうの業の肯定」を演じたときは非道い芸となる。で、「いいほうの業の肯定」を「人情噺」と称(い)い、これらのできる噺家「一人前」と称い。また「名人」と称する。
 
「ナンセンス」は、“どっか常識とは違っている” “ズレている”という可笑しさを誘うものだ。ある意味、バカにしたような笑いを誘う。「ウィット」は、“野郎、巧いこと言いやがったな”というもの」「ジョーク」は、練ってゞ作り上げるものだ。「馬鹿」は、状況判断ができないからやることが可笑しい。で、落語はなぜ“面白い”のか。それは、それら笑いのすべての要素が入っているからであり、そこへさらにイリュージョンをぶち込んだのが立川談志である。だから談志の落語は“さらに面白い”
 
・「先生、どこが悪いんですか?」「肝臓だよ」「原因は何ですか?」「酒のせいに決まっているじゃないか」なんだ酒のせいか。俺のせいじゃないのか」
 
職業安定所へ男が来て、「わたし、子どもが12人いまして」「ほかに出来ることは?」
 
「大学の裏口入学で早稲田の伝統を汚(けが)した?汚したんだじゃない、守っただけの話じゃねえか、バカヤロウ」
 
・もし、この談志が金を払って落語を聴かなければならないとしたら、志ん朝しかいない。私が演ってきた落語とは違う。けど、これが落語というものなのだ。志ん朝の明るさ、綺麗さ、落語のテンポ、文句ない。

 

談志の小噺、いいよねえ。キレがあるよね。落語ファン、オススメです。(・∀・)

 

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談志最後の落語論 (ちくま文庫)

談志最後の落語論 (ちくま文庫)