「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「高島ひでたけの読むラジオ」(高嶋秀武)

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高嶋ひでたけの読むラジオ

高嶋ひでたけの読むラジオ

 

小学生の頃、兄に影響を受けてラジオに夢中になった頃、好きだったのが、ニッポン放送高嶋ヒゲ武 「大入りダイヤルまだ宵の口」だった。思えば、これをきっかけに音楽に興味を持つようになったのだ!♪ パーソナリティの高嶋秀武さんの朝の番組はワタシの社会人としてのリズムだった。のちにわかったのが明治大学の大先輩でウチからすぐの横須賀出身!これも縁があるっ!(・∀・)

 

パーソナリティ歴52年!ラジオを知りつくした男が明かすとっておきの裏話!!スポーツ中継から元総理インタビューまで笑えばスッキリ!おしゃべりで解決!?」そのエッセンスを紹介しよう。
 
東京オリンピックの翌年昭和40年に、私はニッポン放送にスポーツアナウンサーとして入社した。子供の頃からのラジオ好きが高じてラジオの実況に憧れていた私は、冗談でなく喜びと希望で胸が張り裂けそうだったところが入社早々、何人もの先輩から同じことを言われた。高嶋、ラジオはそろそろ終わりだぞ。なんでこんなところに入ってきたんだ」「えっ!」
 
東京オリンピックを機にカラーテレビが全国に普及し始め、テレビ受像機が飛ぶように売れ、栄華を極めた映画も観客動員数が減少し、主役の座をテレビに譲った。新聞には、これからはテレビの時代だと大きな活字が踊った。そんな中で私は落ち目!のラジオ局に入った。しかし私は全く動じなかった。多少日陰になったとしても本当に好きなことをやりたいという情熱が勝っていた
 
・私がラジオを聞くようになったのは父の影響だ。復員して米軍基地で働いていた父は、家に帰るとラジオを聞くのが無類の楽しみだった。「秀武、今ラジオから聞こえてくるのがアナウンサーという人の声だ。針が落ちても響くような静かな部屋で、たった一人でしゃべっている。彼の声は、本人が行ったこともない場所の見たことのない人にも届いてるんだぞ」父親の言葉でアナウンサーを知った。そして憧れの志村(正順)さんに出会い、今の私がある。
 
野球の実況で重要なのは「打球音」や「観客の歓声」とのタイミング。この二つの音が、演出したかのように、実況に織り込まれなければならない。実況が遅れると、無茶苦茶になる。バッターが打つ「カーン」の打球音の瞬間に、「打った!」と実況しなければならない。ところが初心者は必ず遅れる。「ピッチャー第四球を投げ……」で打球音が「カーン!」「打ちっ……、(歓声)ワーッ」観客の歓声が実況よりも先になってしまうのだ。ひどい実況は、ランナーホームインで大歓声が上がっているのに、実況ではまだ点が入っていない!
 
拓郎さんのデビューは1970年、私はオールナイトニッポンのパーソナリティを始めた翌年で28歳だった。ある時、都内の百貨店で番組のイベントを行った。ゲストは当時、ほとんど無名の吉田拓郎さん。ステージに上がると、中央の椅子に座り、譜面台を目の前に置きギターを構えた。その姿に対して私は、今考えると失礼の極み、殴られて当然のようなことを言ってしまった。歌う時はマイクロフォンの前にちゃんと立って、歌詞を覚えて歌わないとおかしいんじゃない」当時は演歌と歌謡曲が全盛で、東海林太郎さんではないが、背筋を伸ばして立って歌うのが当たり前だった。思えばあの黎明期を経て、みな拓郎になり陽水になり、谷村になったのだ。

 

やっぱりラジオはいいねえ。ラジオからテレビに変わっていったように、今、インターネットに変わっているんだねえ。やっぱりラジオは大好きです!オススメです!(・∀・)

 

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高嶋ひでたけの読むラジオ

高嶋ひでたけの読むラジオ