死後、国民栄誉賞を受賞した「男はつらいよ」の「フーテンの寅」の渥美清さん。その真実の姿はあまり知られていない。TV版で共演し、渥美清との至福の時を過ごした秋野太作氏がその素顔に迫る!そのエッセンスを紹介しよう。
・彼に、趣味などあるわけがなかった。
彼は仕事に全てを賭けていた。それが、近くにいれば、 すぐにわかった。
ゴルフも釣りもやらず、車も持たず、決まった女の子の気配すら、 毛ほども見せなかった。
どんな食べ物が好きで嫌いということも一度も言わなかった。 また、何でも食べていた。
そんな彼の態度、日常を、一言で評するなら、「 全神経を仕事に集中していた」という以外にない。 あたかも何の興味も持たない人であるかのようでさえあった( 俳句をひねったのは後年のこと)。それは「上昇志向」 がどうとかの問題ではない。目標を高くに据えて、 常にそれを追っていただけだ。「いつか、俺は、天下を取るー」 という気迫が、彼の身辺には漲(みなぎ)っていた。 それは確かだった。
・渥美清は、もう一滴の酒もタバコも口にしていなかった。 どんな酒宴の席でも、彼は一人冷めて超然としていた。 背筋をスッと伸ばして周囲を小さな目で眺観し、 財布だけを気前よく開いた。当然、 酒席で乱れることなどなかった。酒を飲むより飲まぬ方が、 よほど男として「カッコいい」ことを、私はあの時知った。
・山田洋次監督「……役者というものはねえ、 車に乗ってはいけません。電車に乗るべきです。私の『家族』 という映画はねえ、湘南電車に私が乗っている時に、偶然、 前に座っていた老夫婦を見てインスピレーションを受けて出来上が った話です……車に乗ってはいけません」
・共演中、 渥美氏は他人の演技のことを決してとやかく言わなかった。 一度も言わなかった。(ああしろこうしろ、これでなくては困る、 あれであくてはいかん、そりゃダメだ)と、 まわりの役者に注文をつける、 文句を言うということを一切しなかった。 ある意味では孤高の人だった。ただ一人、 己の演技に確信を持って超然としているかのようにさえ見えた。 どんな役者も《主演・座長》と立場を得れば、他人の演技、演出、 そして脚本までも、 とかく意見を差し挟まぬ者はまずいないと言っていい。これは「 絶対」の文字に、金のノシ紙を付けても、私はそう断言する。
・渥美さんの演技は……実は、 同世代の多くの俳優たちに多大な影響を与えている。当時、 同業の者には、渥美清の演技をそれとなく真似する者が続出した。 (厳密には、現在でも数々の後に続く役者たちが参考にしている) その根底には渥美氏対する深い敬愛の念がある。 杉浦直樹氏はー心酔者だった。名古屋章氏もーそうだった。 石立鉄男氏のーあの素っ頓狂な、頭から声を出す演技は、 やはり渥美氏の影響で始まった。渥美清との共演作『父子草』 以来、驚くほどコロリと芝居を変えてしまった。 西田敏行氏はー今でもアツミ教信者の片鱗をそこここに示す。 教祖様のお仕事の後を、何かと後追いしつつ真似ている。 その他の小者をあげればきりがない。かくいう私も、真似をした。 田中邦衛氏「渥美清ってのはよおおお、おまえええ、 天才だぞおおお、おまえええええ……」と語っていた。
・私は、渥美清が、大好きだった。
今でも、とっても……大好きだ。
渥美清といられたあの時間は、私にとっては ー至福の時だった
役者人生最高のー
至福のー
時だった。
あれほどの才能に、私は、以後、出会ったことがない。
私は、葬式になんか、行かない……のだ。
行かなかった。
お墓参りだって、絶対に、行かない……のだ。
行くものかー
絶対にー
私は、渥美清の、死を、認めていない。
知らんふりを決め込んでいる。
そうなのだ。
「渥美清」は……
私の心の中で……
いつまでも、いつまでも、永遠なの ……だから。