「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「仏教とっておきの話366 春の巻」(ひろさちや)

f:id:lp6ac4:20190819053934j:plain

仏教とっておきの話366 春の巻 (新潮文庫)

仏教とっておきの話366 春の巻 (新潮文庫)

 

 このシリーズも3冊目「春」の巻。わかりやすく毎日ひとつずつ仏教の話が収められている。そのエッセンスを紹介しよう。

 

閻魔王はインドの出身インド神話にヤマというのがいて、このヤマは死者第一号であった。それで彼は人跡未踏の天界に行き、そこに緑の楽園を発見した。彼はその楽園の発見者であるから、領土宣言をして楽園の王となった。つまりヤマは死者の国の王様だ。そのヤマに漢字を宛てると「閻魔」になる閻魔王の支配する死後の世界は天上界の楽園で、清流があり、音楽が流れ、すばらしいい土地であった。だが、しばらくするとその楽園に悪人までがやって来て満員になったそこで閻魔は、地下に牢獄をつくって、そちらに悪人を収容した。その地下の牢獄が「地獄」である。かくて、いつのまにか閻魔は地獄の王にされてしまった
 
気象庁のある予報官が、明日の天気を「快晴」と予報した。翌朝は土砂降りの雨だ。予報が外れた。予報官は呟いた。この天気図によると、絶対に雨は降らない。したがって、降っている雨がまちがっているのだ」これは笑い話である。仏教においては「慈悲のこころ」を強調している。慈悲てゃ、他者に利益や安楽を与え(与楽)他者の苦に同情し救済しよう(抜苦)とするところである。したがって「競争するな!」というのが仏教の教えである。「仏教の教えによれば、競争をしている世の中がまちがっているのだ!」
 
念仏をするのに、こうでなくてはいけないといった決まりなんてない結婚をしたほうが念仏を称えやすいのであれば、結婚すればいい。家に居てもよいし、流浪してもよい。たにんの援助を受けてもよいし、自分の独力で生きてもよい。大勢の仲間と一緒のほうが念仏を称えやすければ大勢でやればいい。一人のほうがよければ、一人でお念仏すればいい。法然上人はそう言っておられる。非常におおらかな考え方である。どこにもこだわりがない。
 
・一休の庵室に、彼の俗弟子で孫右衛門という男の奥方が訪ねて来た。酒を出してもてなしているうちちに夕方になり、庵室も暗くなってきたすると一休はこの奥方に今宵はここにお泊まりなさい」と言う。もちろん、彼女は怒る。夫のある身、そんな不倫はできぬ。それに、あなたはご出家ではありませんか。世間の有名人である一休さんが、酔って人妻を口説くとは……と、ぷりぷりしながら帰って行く。帰って夫に仔細を報告した。ところが孫右衛門は妻に言う。一休禅師といえば「生きぼとけ」と呼ばれる人だ。そういう有名人に抱かれるとは名誉なことだ。もう一度行ってお相手をして来い、と。念入りに化粧し、再び一休の庵室を訪ねて行った。だが、一休はわしの欲望はとっくに醒めてしもうたわい」と言い、奥方を追い返したという。たしかに一休は狂っている。一休の物差しはどこかおかしい。夫の孫右衛門も物差しも、妻の物差しも狂っている。一休は自分の物差しを狂わせることによって、みごとに世間の物差しの狂いを暴露したのであった。なるほど一休は名僧だったのである。
 
仏は「水」のようなものだと思えばいい。「水」は様々な形をとる。海の水、川の水、植物の中にある水、空気中にある水蒸気、等々。これが「水」だという形はない。それと同じでこれが仏だという姿・形のないのがほとけさまであるそのような姿・形のないほとけを、では、われわれはどのように拝めばよいか、迷ってしまう。われわれは仏の力によって救われるのであるが、その仏の姿・形が見えないと、なかなか救いが実感されない。そこで仏像が造られたのである。したがって仏像は、ほとけの究極・最高の姿を刻もうとしている。美の極致を表現しようとしている。だから仏像は美しい仏像には、この世ならざる美が表現されている。
 
・仏教は布施のこころを教えている。相合い傘でいえば、濡れている子がかわいそうだから自分の傘に入れてやるのではない自分一人が傘をさしていたのでは気がすまぬから相手にわたしの傘に入っていただくのである。わたしの傘に入ってくださいと頼み、入ってくださってありがとうとお礼を言うのが、布施のこころである。お互いに半分ずつ濡れましょうということである。
 
・ある家に一人の美女が訪ねてきた。「わたしは吉祥天よ。あなたに福徳を授けてあげるわ」福の神の到来である。どうぞ、どうぞと彼女を招じ入れた。とろろが、もう一人彼女と一緒に中に入ろうとする女性がいる。こちらの方は醜女で、見るからに貧乏神である。「おまえは誰だ?「わたしの名は黒闇天(こくあんてん)。わたしの行くところ、かならず災厄が起きる貧乏神よ……」主人はこの黒闇天を追い払った。そのとき、この禍の女神はこう言った。「あんたは馬鹿ねえ。さっき入って行った吉祥天はわたしの姉さんよ。あたしたち姉妹は、いつも一緒に行動しているのよ。あたしを追い出せば、姉さんも出ていくのよ」そうして、吉祥天と黒闇天の二人は肩を並べて去って行った。(「涅槃経」)世の中には、人生には、いいことと悪いことが背中合わせになっているようだ。「禍を転じて福となす」といった積極的な気持ちが必要なのである。
 
・80歳になる老僧が、英語の勉強をはじめた。「いくらなんでも遅すぎますよ」「遅すぎるということは、わしだって知っている。でもな、いま、英単語の一つでも二つでもおぼえておけば、このつぎ生まれてきたときに楽ができるだろうと思うてな……」
 
人生というものは列車で旅をしているようなものだと思っている。「人生老死号」と名づける。この列車は時々刻々、老と死に向かって走り続けている。若さに向かって走ることはない。各駅停車で、各自が降りるべき駅が近くなれば、ほとけさまが教えてくれる。「おまえ、次の駅で降りなさい」そのとき、わたしたちは周りの人々にしっかりと挨拶をして降りたい。わたしは、ほとけさまに言われたので、次の駅で降ります。みなさまとともに楽しい旅をさせていただきました。ありがとうございます。みなさまは快適な旅をつづけてください」そういって降りるならば、死はすばらしい布施になる。なぜなら、わたしの座席に他の人が座れるからである。立ったまま降りねばならぬ人もいる。しかし、そういう人でも、降りることは布施になる。それだけのスペースが空くからだ。だいいち、誰かが降りぬと新しい乗客が乗ってこれない。わたしたちがこの列車の乗客になれたのは、ご先祖さまたちが降りてくださったからである。だから、死は布施である。そのことを信じて、わたしたちは人生老死号を降りていきたい。わたしたちがほとけさまに言われた駅で降りると、隣のプラットホームには、「ほとけ号」が待っていてくれる。わたしたちをほとけの国に運んでくれる。わたしはそう信じている。
 
「地獄極楽裏表」といったことわざがある。地獄湯と極楽湯が隣どおしに並んでいる大きさも設備も何から何まで同じ。ともに超満員。地獄のほうはあちこちで殴り合いの喧嘩がる。足を踏んだ、踏まれた、湯がかかった、肘で突かれた…そんな争いが絶えない。まさに地獄の光景である。一方の極楽湯同じ人数なのに和気あいあい。それはまるく輪になって他人の背中を洗っているから。狭い場所でも仲良くやって行ける。それが極楽のあり方である。地獄も極楽も人間の心にあるのだ。
 
・くもが蝶を捕食し、ライオンがシマウマを捕食するのは弱肉強食」ではないシマウマが自分のいのちを布施していると見る。捕食者のライオンがいないと、シマウマはふえすぎて食糧不足になって全滅するのである。だから、シマウマはライオンに助けられて生きているのだ。もちろんライオンはシマウマに助けられて生きている。それがこの世界にあり方である。蝶はくもにいのちの布施をしているのである。
 
「布施」はサンスクリット語で「ダーナ」というこの音写語が「檀那」あるいは「旦那」である。つまり「旦那」は「布施をする人」でありこじき「右や左の旦那さま…」と呼びかけるのは、サンスクリット語を使っているのだ。われわれは、布施というものは自分にとって重要なものを施さねばばならない。不要なもの、それがなくて困りはしないものを施すのは、布施ではない。真の布施になるためには、体全体、両目を施さねばならないのだ。しかし、わたしにはこれしかできないのです。申し訳ありませんと、お詫びの心でもって施しをさせていただく。そうすれば、それが布施になると思う。
 
その他、「裸の王様ー東と西」「禅と痩せ我慢」「手の平いっぱいの塩」「宇宙仏としての盧遮那仏」「カルネアデスの板」「ほとけの子であれ!(最澄)」「見・聞・疑の三肉」「ならぬ堪忍、するが堪忍」「客なれば、心を残さず(沢庵和尚)」「世界は大きな牢獄だ」「餓鬼に三種あり(無財餓鬼、小財餓鬼、多財餓鬼)」「「因」を呼ぶ「縁」が大事」「ほとけのいのちをいただく(親鸞の袈裟」「まだ女を抱いているのか!?」など。
 

やっぱり仏教は深いね。実話やたとえ話が満載だね。オススメです!(・∀・)♪

 

f:id:lp6ac4:20190819053934j:plain

仏教とっておきの話366 春の巻 (新潮文庫)

仏教とっておきの話366 春の巻 (新潮文庫)