「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「戦国武将はなぜその「地名」をつけたのか」(谷川彰英)

 


戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか? (朝日新書)


出張で全国行脚している。もともと地理が好きなので、全国でこの地名の由来は何なんだろうなあ!?と考えることも多い。

「仙台」は駅前のヨドバシカメラの駐車場の収容台数が「1000台」ということから由来している……ワケないっ(笑)!!!!


さてこの本。「福岡、仙台、浜松など現代の都市名の多くが戦国武将によってつけられていたことは案外知られていない。そこには、繁栄や平和を夢見た彼らの願いが込められていた。全国をくまなく歩き、地名の由来によって解き明かされた男達のドラマ」そのエッセンスを紹介しよう。


戦国武将が命名した地名が全国各地に残っている織田信長による「岐阜」伊達政宗による「仙台」などは代表的なもので、それ以外はほとんど世に知られていない。「長浜」豊臣秀吉会津若松蒲生氏郷「熊本」加藤清正「福岡」黒田長政「浜松」徳川家康「久居」(藤堂高道)である。「久居」だけはややマイナーだが、その他は超一品の戦国武将と都市である。


「天下平定の計画を樹てんとして、先づ名を正して人心を一新せん」と。岐阜城の建っている金華山に登ってみればわかることだが、ここからの眺めはまさに天下一品。西に伊吹山を望み、左手には名古屋のツインビルまで濃尾平野を一目で見渡すことができる。「岐阜」の「岐」は「分かれる」の意味で「阜」は「岡」「丘」という意味。まさにこの山からは東西の動きが手に取るように見えるようである。


石田三成の生誕地は滋賀県長浜市になっているが、かつては「石田郷」「石田村」と呼ばれていた。もともと「今浜」と呼ばれていたが「長浜」に変えたのが秀吉だとされている。信長の意向が多分に働き、信長の「長」をとったという節が真実のようだ。


会津は、崇神天皇の命を受けて高志(こし)の国に派遣された大毘古命(おおびこのみこと)は、東方から派遣された息子の建沼河別命(たてぬなかわわけのみこと)と、ここで遇ったので「相津」と呼ばれていた。その「相津」が「会津」に転化した。「津」は「湊」を意味するが、かつてこの「会津平野(会津盆地)」は湖であったと言われている。だから「津」はその名残だ。


「隈本」が「熊本」に改称した背景は、加藤清正が「隈という字は阝(こざとへん)に畏(かしこ)まると書き、武将の城としては不適当である。勇猛な熊の字に変えよ」と命じて変更させたと伝えられる。「隈」は「(川などの)湾曲点、つまり曲がり目」「奥まったところ、隅っこ」「暗く陰になっているところ」「辺鄙なところ」という意味もあり、これでは武将としては元気がでないと清正は判断したのである。清正が文禄の役の際の虎退治をしたという話があり、そんな意味で猛獣をイメージしたのかもしれない。


黒田長政が「福崎」を「福岡」と命名した背景は、自分のルーツと権威を誇示するために黒田家に縁のある「備前国邑久郡福岡村(岡山県瀬戸内市永船町)」という地名を使ったのではないか。


「千代」から「仙台」に変えた背景には、この城の脇に「千代仏」があったからとされている。伊達政宗はなぜ「仙」という文字を使ったのか仙台とは、古代中国の首都長安の西にある仙人の住んでいた山のことで、人の住む理想郷を意味している。人の住む理想郷を意味している。正宗が「仙台」という地名に託した夢なのだろう。


家康はそれまでの「曳馬城」を「浜松城」に変えた。この時点で現在の「浜松」という地名が確定した。「曳馬」「引馬」の「引く」は「退く」ことを意味しているため、縁起が良くない。「三方原」も当時は「曳馬野」と呼ばれていたようでそれを「味方原」と改称したあたりも、いかにも戦国武将らしい家康らしい決断であった。波万万津(浜松)と呼ばれていた。


その他、「盛岡ー「不来方」から盛岡へ」「福島ー秀吉のはからい」「高崎ー井伊直弼命名」「甲府ー信玄の父が名づける」「松本ー武田信玄への抵抗」「富山ー「外山」から「富山」へ」「福井ーもとは「福居」だった!」など。


子供も地名も名付けって思いが伝わるよね。オススメです。(⌒▽⌒)


 


戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか? (朝日新書)